2005年06月01日

(生い立ちの記:6) 総督府

Sohtokufu1.jpg

北投の善光寺に学童疎開していた8月15日、終戦となり淡水の街に帰った。

台南の歩兵連隊本部に応召していた父も、部隊解散となり9月1日に北投経由淡水に帰宅した。

敗戦になっても台湾の人達は良くしてくれた。
心配したほど治安は悪くならなかった。

間もなく、大陸から中国兵が進駐してきた。
雨の中、裸足の行軍があった。
背嚢のほか、唐傘や金盥を背負っており、号令に従って右手にさしていた唐傘を一斉に左手に持ち替えると見ていた台湾人が失笑していた。
何処の国も軍隊や警官など制服で就役しているときに傘は差さない。
必要があれば雨合羽やレインコートを着用する。
片手では仕事も戦闘も出来ないからである。

家の近くにも中国の憲兵だか、警官がパトロールするようになった。

1946(昭和21)年になると内地人の送還が本格化した。
家財は持って帰れなかった。
身の回りの携行品だけで引上げることになった。
資産を取り上げられて、一世帯千円(?)のみ交付された。

3月17日に、淡水駅で知人・友人に送られて、台北の総督府の建物(↑写真)に集結した。
(いま、MRTが走っているルートに汽車が走っており、母は娘の頃これで淡水から台北一高女に通学していた)

総督府に着いた頃から母が熱を出し寝込んでしまった。
小さい子供を2人連れて、家族の荷物と病人を抱えて父も大変だったであろう。

廃墟のような総督府の建物に1~2泊して貨物列車で基隆に向かったのである。

総督府では建物の通路にも中国憲兵が居り、子供心にも少々気味が悪かった。


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