2006年03月29日

(飛行艇の時代:50) 川西大艇「綾波」

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大日本航空(株)は1938(昭和13)年12月1日に日本航空輸送と国際航空の対等合併により設立された国策会社である。

第一次大戦後、日本はマリアナ・カロリン・マーシャル群島からなる南洋群島を委任統治していた。

1936年に試作された川西航空機(株)製 九試大艇が審査の結果、海軍九七式飛行艇として制式採用され、高性能のため当時としては超大型であったにも拘わらず1942(昭和17)年までに179艇(九七式輸送艇を含まず)製作された。

2000マイルを越える航続距離を活かして九七式輸送飛行艇も36艇製作され、試験的に輸送艇に改造された九七式飛行艇の7号艇8号艇と併せて38艇が南洋諸島・昭南(シンガポール)などとの輸送任務にあたった。

詫間航空隊・東港航空隊など海軍の航空隊で運用されたもの20艇、大日本航空海洋部の運用が18艇と言われているが、異なる数字を挙げている資料もある。

大日本航空の「綾波」は南洋定期航空路開拓のために何回か使用されている。
佐藤一一著:日本民間航空通史(平成15年2月、国書刊行会発行)には

◎1939(昭和14)年4月4日~10日
大日本航空の川西式四発飛行艇「綾波」号は南洋定期航空路開拓のため横浜磯子飛行場を出発、横浜-サイパン間2,610kmを10時間20分、パラオまで1,570kmを5時間15分で飛び、10日横浜帰着

◎1940(昭和15)年10月22日
大日本航空の「綾波」号によりパラオからポルトガル領チモール島への定期航空路開拓の第一回調査飛行が行われた。この飛行は非公式飛行で当時は公表されず、以後七回の調査飛行が実施された。

◎1940(昭和15)年11月22日~27日
大日本航空の「綾波」号はパラオ-淡水間処女空路開拓のため、横浜-サイパン-パラオ-淡水-横浜間9,237kmを飛行時間37時間12分で飛んだ。

と記述されている。

ただ、同じ年表には

◎1940(昭和15)年3月6日
大日本航空は横浜-サイパン-パラオ間定期航空路の運行を開始し、一番機川西四発飛行艇「局八号」は旅客6人を乗せて横浜を出発した。

とある。

この艇名が判らない。
誤植なのか、当時の便名か何らかの仮称であろうか?

1941年以後は「浦波」「白雲」の艇名が見える。

◎1941(昭和16)年1月9日
大日本航空の南洋島内線第一便として川西式四発飛行艇「浦波」が就航。パラオ発島内一周8日間で、隔週1便運行。

◎1941(昭和16)年7月19日
タイ・仏印の新国境画定委員会に出席する矢野主席委員ら13人をのせた大日航の川西式四発飛行艇「白雲」が横浜-淡水-サイゴン-バンコク間の処女空路を開拓した。

◎1941(昭和16)年11月25日
チモール島定期空路第一便「浦波」号がパラオを出発しデリー安着。

などである。

このような南洋諸島の航空網開拓を描いた映画「南洋の花束」が製作された。
1942(昭和17)年に封切られた東宝作品(阿部 豊監督)である。
南洋委託統治領にある航空会社の支社が赤道を越えて南半球に延びる長距離新空路を開拓する物語である。

写真は横浜市神奈川区のモケイラッキーと言うメーカーのプラモデルの外箱を複写したものである。
操縦席窓下に大日本航空のウィングマークと艇名「綾波」が見える。
4発の「金星」航空発動機と金属製3翅のプロペラが印象的である。
艇体側面前方に乗客用丸窓がないのは民間型の識別点の一つである。
(16回の川西大艇の写真と対比されたい)

キットには「綾波」用と「叢雲」用の2種類のデカールが含まれている。


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