2009年09月28日

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近代的旅客用飛行船の系譜(5) 休戦協定直後に出現した新型飛行船(3)

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この「LZ120:ボーデンゼー」の建造に限らず、ヴェルサイユ条約で建造が禁止されていた旅客用航洋飛行船をアメリカ海軍に戦時賠償金の代わりとして新造する提案を行い、これが認められた経緯など、第一次大戦停戦以降「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」開発まで大きな謎が幾つか残され、飛行船史上重要な時期に大きな空白がある。

ツェッペリン関係では、10万立方メートルの「アメリカ船」・「L100」・「LZ124」・「LZ125」・「LZ128」など、シュッテ・ランツ飛行船では「ロサンゼルス」引き渡し直後に合衆国と協議が進められていたという航洋旅客用飛行船「SL101:アトランティス」・「SL102:パンアメリカ」、「SL103:パシフィック」など謎だらけである。

「LZ120:ボーデンゼー」・「LZ121:ノルトシュテルン」に関しては、飛行船研究家の一人であったペーター・クラインハインス教授(1996年没)が、フリードリッヒスハーフェンにあったツェッペリン飛行船製造社の公刊資料を中心に、イタリアのヴィグナ・ディ・ヴァレ軍事航空歴史博物館の「ウンベルト・ノビレ文書」、ロルクのヘルマン E.ジーガー社、ハンブルクの海軍飛行船戦友会、チューリヒのETH図書館・科学歴史コレクション、ローマのマッジョーレ州航空科学館の文献を調査し、ウンベルト・ノビレ未亡人、故アルバート・ザムト飛行船長、ダグラス H.ロビンソン博士、ヴォルフガング・フォン・ツェッペリン氏などと面談や文書のやりとりなどにより、仕様や経歴について明らかにし、あるいは更なる調査の手掛かりを与えてくれた。

しばらくは第一次大戦直後に、完成後「LZ120」・「LZ121」となる小型旅客飛行船開発のきっかけとなったツェッペリン飛行船製造社で行われた重要な会議から経緯を追ってみる。

1919年1月27日に役員室に集まったのはフェルディナンド・ツェッペリン伯爵の甥で伯爵から後継者と指名されていたマックス・ゲミンゲン男爵、ツェッペリン・コンツェルンの総支配人アルフレート・コルスマン、戦前からDELAGを経営し戦時中はノルトホルツの飛行船要員養成所の責任者を務め、後にボーデンゼーに戻って飛行船製造社の経営陣に加わったフーゴ・エッケナー博士、ツェッペリン飛行船製造社の技術担当役員となった有名な主任設計者ルートヴィヒ・デューア博士、その顧問であるウィルケ少佐、飛行船船長のE.A.レーマン、デューア博士を技術面でサポートしていたカール・シュタール、飛行船船長で物理学者・気象学者であるE.レンパーツ博士、設計技師のパウル・ヤライ、それに構造解析を担当していたカール・アルンシュタインという錚々たる顔ぶれであった。

総支配人のコルスマンがこの会議の招集目的・提案趣旨を説明した。
ドイツ国内の鉄道および道路交通が麻痺しているので、これを緩和させるために提案された、乗客を約20名輸送することの出来る小型飛行船の建造をどうするか審議するというものである。
提案者はレーマン船長、レンパーツ博士、ヤライ技師であった。

ボーデンゼーからベルリンまで、戦前は列車でおよそ14時間を要していたが、戦後のこの時期早くてもダイヤより数時間遅れで、ひどい場合は倍の28時間も掛かることがあった。至るところで集会やストライキが発生し、道路交通も常態的に渋滞していた。戦勝国側からは機関車などが貸与されたがまともに運航できる状態ではなかった。
地上の交通が途絶常態のこの頃、ベルリン・ヴァイマール間に2〜6人乗りの飛行機が運航され、AEG傘下のドイッチェ・ルフト・リーデライが設立されるなど航空会社が設立されている。

この会議の出席者の一人、レンパーツ博士は鉄道の難局はその後1年以上継続すると考えており、南独からベルリンにその飛行船を定期運航すれば年間300回以上の飛行が見込めると考え、エッケナー博士は200〜250回と想定していたようであるが、コルスマンは採算にのるとは考えていなかったが「それでも我々は、第1に自分たちが資金を出し、第2に自分たちで仕事をし、第3に自分たちで稼ぐことで事業を展開する。」と言っている。

出来る限り天候に依存することなく運航し、小型・高速で乗務員を減らすということで意見はまとまった。当初12000立方メートル案が提案されたが、ヤライは航続距離を1600キロメートルにするには、エンジン3基では15000立方メートル、4基では18000立方メートルになると想定した。エッケナー博士は中部ドイツ山岳を越えるためには圧力高度は少なくとも800メートルは必要で航続時間は12時間、載荷重量は9トン程度欲しいと考えた。結局ガス容量は2万立方メートル必要だという方向で検討することとなった。

デューア博士は、別のプロジェクトを同時に並行させる必要がなければ、その飛行船を5、6ヶ月で完成させることが出来ると推定した。

第一次大戦終戦直後から検討されていた「アメリカ船(10万立方メートル船)」を棚上げにして小型飛行船計画を推進することになった。

1919年2月12日の協議で、この建造番号「LZ120」の小型旅客用飛行船の建造が確定した。コルスマンは席上「代理店HAPAGの職員は、ベルリン-スイス間ルートで毎日満席になることを保証し、20人でなく30人の乗客を載せられないことを残念がった。」と報告している。

とりあえず2万立方メートル船を建造し、可及的すみやかに2番船を建造することになった。

1919年1月27日に開催された方針決定協議の記録には「ヤライ技師によれば、容積2万立方メートルの飛行船は(中略)4基のエンジンを装備すれば時速133.5キロメートルを達成することが可能である。」とある。

会議室に計算尺を持ち込んで、議論の最中に船体容積や速度を2%の精度で推測し、飛行船の諸元を推定するパウル・ヤライとは、一体どんな人物だったのであろうか?

見出しの写真は、自分の製作した自転車 "J-Rad" に乗るパウル・ヤライである。

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