2009年09月29日

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近代的旅客用飛行船の系譜(6) 休戦協定直後に出現した新型飛行船(4)

LZ120_model.jpg

パウル・ヤライの名は飛行船史に関する著書にもほとんど出てこない。
彼は戦前からツェッペリン飛行船製造社やDELAGに居たわけでもないし、「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」や「LZ129:ヒンデンブルク」が活躍した時期にはフリードリッヒスハーフェンを去ってスイスに移り住み、自分の技術事務所を開設していたからである。

パウル・ヤライ(Paul Jaray:1889-1974)はウィーンで育った。彼には芸術家肌の傾向があったが、ウィーンの第一機械工業専門学校に入学している。
航空分野に関わったきっかけは1909年にブレリオのデモ飛行を見たときで、彼はその整備工と知り合っている。
ブレリオは、はじめて英仏海峡を飛び越えた飛行士として有名である。そのとき乗っていた飛行機がブレリオⅨ型機であった。ブリレオは1905年頃から飛行機の開発に取り組み、最初に手掛けた実機は飛行機凧のような複葉水上グライダーであったという。これがⅡ型と呼ばれているのでⅠ型は試験用の模型であったのであろう。Ⅲ型は環状翼の水上機、Ⅳ型は複葉陸上機、Ⅴ型は陸上単葉機と次々に試作を重ねたがⅧ型まで失敗の連続であり初めて作った飛行機らしい飛行機がⅨ型であった。
Ⅸ型は、初期の飛行機として名機中の名機と言われ、数年間に多数の発注を受け、日本にも輸入されている。
しかし、そのあと単葉機を幾つか開発したもののⅨ型を越える機体は出なかった。

1912年にプラハの技術専門学校で短期間助手を務めていた。
その後、フリードリッヒスハーフェンでツェッペリン伯爵のもとで最初の硬式飛行船「LZ1」を設計したテオドール・コーベルの経営する飛行機製造会社の主任技師になった。このとき彼が部分的に設計に従事した飛行機が1918年にスイスに納入されたと言われている。

1914年か1915年頃、ツェッペリン飛行船製造社に移り、「LZ2」以降すべてのツェッペリン飛行船の主任設計者デューア博士と、その同僚のカール・シュタールのもとで仕事を行い、飛行船を可能なかぎり理想的な流線型のすることを目標と考えていた(デューア博士はカール・シュタールを後継者と目していた優秀な技術者であったが、シュタールは第一次大戦後飛行船の建造が禁止されたのでドルニエ航空機に移籍した)。

ツェッペリン飛行船製造社のライバルであるシュッテ・ランツ飛行船製造のヨハン・シュッテ教授は、流線型の船体形状をはじめとする多くの事項を科学的原理に基づいて独自に開発し、その成果のすべてをツェッペリン側が模倣したと言っている。十字尾翼やガス排出ダクトなどシュッテ教授の功績も大きいが、ツェッペリンの技術陣も独自に研究開発を進めていた。
(ツェッペリン飛行船も、世界大戦の始まる1915年頃には平行部の殆どない、いわゆる流線型船体になっていた。しかし、飛行船は水上船舶のような剛構造ではなく柔構造であるため建造用格納庫でリングやフレームを組み立てる必要があり、格納庫の高さで最大直径が制限され、葉巻型にならざるを得なかった。「LZ120」は小型であったため理想に近い流線型にすることが出来た。「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」は格納庫の寸法制約により長い船体に操縦兼乗客用ゴンドラを主船体に埋め込むようにして建造された。「LZ129:ヒンデンブルク」は新しく構築された格納庫で建造された。)

カール・シュタールは、DELAGが初めて発注した「LZ7:ドイチュラント」以降の飛行船の船首尾形状を数式表現することを試み、楕円曲線や放物線を適用しているが、その後の展開をヤライに委ねている。

「LZ7:ドイチュラント」の写真を見たときに船首形状が鉛筆の先のようで他の飛行船と違うと思っていたが、1909年当時形状設計の試行の時期であったのであろう。

ヤライはこの時期、新しい大型風洞を設計し飛行船船体形状だけでなく、尾翼やエンジンゴンドラ、その支柱や張線まで改良を試み空気抵抗の低減を図り、さらには格納庫やその大きな開閉扉の形状まで研究の対象にしている。

1915年4月に初飛行したp型飛行船(L10型)の初号船「LZ38」の最高速度はヤライの性能予測によると毎秒26.5メートルのはずであったが、24.5メートルに留まっていた。調査の結果、手違いで別の飛行船のプロペラが装備されており、正規のプロペラで再試験を行うと毎秒26.7メートルを達成したと言われている。
1917年以降飛行船のプロペラはすべてヤライが開発していた。
このほかヤライはツェッペリン飛行船製造社と共有で数十件の特許を取得していたと言われている。

1924年にヤライはツェッペリン飛行船製造社を退社し、スイスで技術事務所を開設した。
彼は飛行船のように空中にある船体の空気抵抗と、車両のように地表に接する場合のそれとの根本的相違を認識していたという。何社かの自動車メーカーで流線型車体を設計しその名を知られていたという。
また、バーンズ・ウォリス博士のいたイギリスの飛行船メーカー、エアシップギャランティ社から船体形状の専門家として招聘され「R100」の建造にも関わっている。

彼は飛行機製造(前輪)、風力設備、排気装置、消音器、信号伝達装置、電話回線によるTV中継、無線電信(ラジオ受信機で初めてチャンネル選択に押しボタンの採用)、医学的ジアテルミー処理機器など広い分野で社会に寄与している。

しかし、当時の社会的環境のために自身のアイデアや技術を経済的成果に結びつけることが出来なかった。


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