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2011年08月 アーカイブ

2011年08月01日

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八里に住んでいた人からのコメント

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八里で生まれた人からコメントを貰った。

戦前の八里は当時の淡水よりずっと辺地で、関渡大橋も架かっておらず渡し船でわたるしかなかったので、台北からバスで廬州を通って行くほかはなかったらしい。

対岸の淡水から見える標高612メートルの観音山の麓の郷であった。

1900年前後には全台湾の貿易額の6、7割を占めていた淡水港は川口のため浅く、外航船の大型化に対応するために基隆港が整備されると港湾としての役割を終えてしまった。

その基隆港は客船埠頭、貨物埠頭、コンテナヤード、それに軍港としての機能も持っているものの戦後は取扱量の増大に対応しきれず満杯状態である。

そのため淡水の対岸の八里が大規模コンテナヤードとして整備されてきた。
淡水からはコンテナクレーンがはっきり見える。

淡水と八里は交通の便も良くなった。
車輌なら関渡大橋で渡れるし、漁人碼頭に架橋する計画もある。
頻繁に渡し船も往復している。

今日、コメントを貰った人は八里を故郷と思っている人を知らないという。

今度の淡水会で、知っている人はいないか聞いてみようと思う。


2011年08月02日

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関東基隆会

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公会堂の裏にあった淡水の稲荷神社の写真を通じて知り合った「台湾に渡った日本の神々」を調べている方のブログに「関東基隆会」の様子が報告されていた。

先月開催された第15回の例会には80人を越えるメンバーのほか、基隆生まれの台湾女性の集まり「基隆会」からも9名の参加があったという。

来年の第16回例会は7月20日に開催されることも決まったそうだ。

先日は、士林会の開催状況を報告したが、開校104週年にあたる平成11年に佐賀で開催された士林会には70名も集まったと聞いた。

淡水会も今後ますます発展するために出来ることなら何でもお手伝いしたいと思う。

今年の例会の案内を心待ちしている。


2011年08月03日

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紅毛城前の横断歩道

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これは現在の紅毛城前横断歩道である。

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こちらは十数年前の同じ横断歩道である。

ここ十数年の間にすっかり変わって、以前の面影を偲ぶことの出来ないほど変貌を遂げたところもあるが、すこし榕樹が繁ったくらいであまり変わらないところも残されている。
この界隈は正面左手の煉瓦壁もその中に繁っている木立も当時とあまり変わらない。
当時はまだ環河道路が工事中であった。

現在の写真を比べてみると横断歩道に柵が設けられたことと、紅毛城の近くなので、以前屋台のあったところに領事館餐廳というレストランが出来たくらいである。

2011年08月04日

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二胡のこと

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6年前に姜暁艶の教室で二胡を習い始めた。

学生の頃、ちょっとフルートを習っていたが、弦楽器の音は良い。

淡水のMRT駅前広場で二胡で日本のはやり歌を演奏していたのを聴いたことがある。

二胡は初めてであったので演奏法を学ぼうと思ったのだが、その教室では毎年実施する大規模な演奏会のための練習を主体にしていた。

それに、後にNHK教育TVでやっていたチェンミンのように細かいツボは教えない。
見て盗めというのであろうか・・

そんなことで、一度演奏会に参加したあとは足が遠のいてしまった。

ときどき弾いてみようと思う。


2011年08月05日

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周明徳氏の私家本に載っている淡水

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米国に在住している淡水の名士、周明徳氏の私家本「続・夕日無限好」に載っている淡水市街である。

昭和7年に撮影された珍しいカラー写真である。
KGさんが複写して送ってくれたものである。

右手に淡水公学校、左端に淡水中学校が見えるが、長老派教会も公会堂もよく判らない。
当時の街並みはすっかり建て替わり、当時を偲ぶことは難しくなっている。


2011年08月06日

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淡水の長老派教会

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19世紀末にマッカイ博士によって建造され、1932年に再建された淡水長老派教会は馬偕街8号にある旧蹟の一つである。

しかし、馬偕頭像のあるロータリーから路地を入ったところにあり、まわりに高い建築物が建ち並んでいるので、戦前ほど目立たなくなってしまった。

中山路に面した淡水文化センター裏の坂道から見た教会の尖塔である。
赤い煉瓦造りが美しい。

手前の坂道を下って曲がったところにマッカイ博士の旧宅が残されている。

2011年08月07日

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漁人碼頭の変遷

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淡水の市街から淡水河の河口まで2、2キロメートル程度である。

淡水河は台湾では大きな河であるが比較的きれいな河で、小魚のほかハマグリも淡水自慢の一つである。

船で上海へ行こうものなら揚子江の水が遙か沖合まで流れ出して黄土色であるが、それに較べると淡水河は清流である。

しかも河口は遠浅で海水浴にちょうど良かったので、台湾で初めて海水浴場が作られた。
淡水街営の海水浴場で、シーズンには淡水線の列車を増発したり、駅から海水浴場までのバスの割引サービスがあったりして大層賑わっていたという。

三方が丘に囲まれ、神奈川県の鎌倉に似ているから淡水鎌倉海水浴場などと呼ぶ人も居たらしい。

しかし、大東亜戦争が始まると射爆演習場になり荒れ果ててしまった。

1988年頃から多機能モデル漁港として再開発され、漁業協同組合の漁協としての機能のほか、レストランや土産物屋のならぶ河岸遊歩道やそこに渡る橋などが整備された。

遊漁船や連絡船、河口クルーズなどのほかウェットスーツによるダイビング船なども営業している。

淡水の夕陽を目当てに訪れる人も多い。

背景に無線アンテナが数本見えるが、東シナ海で操業する遠洋漁船との連絡用であろう。
戦前もこの近くに無線の送受信局があり、九州などとの交信を担当していた。
当時、淡水郵便局は無線通信局の業務も担当していた。


2011年08月08日

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仏桑華

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台湾の花というと胡蝶蘭を思い出す人が多いようであるが、私はハイビスカス(仏桑華)がまず頭に浮かぶ。

台湾のハイビスカスはハワイの花のように大きくはない。

生け垣などに植えられていて、日が射すとと開くが陰ると花を閉じる。

台湾の仏桑華には、品種改良されて、下向きに咲き、花弁が反り上がって真ん中に長い雌蘂が下がってちょうど支那提灯を思わせるものがある。

友人たちとインド旅行の帰りに仲間の一人が病気になり、それに付き添って台湾で下船し、淡水の地が気に入って家族を呼び寄せて終戦まで滞在し引き揚げ船で帰国した木下静涯画伯もよくこの華を描いていた。


2011年08月09日

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淡水社付属淡水稲荷社

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現在、図書館のある文化センターの建っているところに淡水公会堂が建っていた。

公会堂の本館は1階部分が煉瓦建てで、2階には広く見晴らしの良い廊下があった。

本館の右隣には洋館が建っており、その右奥に淡水稲荷社があった。

洋館の傍を行くと10段程度の石段があり、その上に建っていた。
ほかの稲荷神社と同様に、お参りした人が寄進した朱塗りの鳥居が幾つか奉納されていた。

見出しの配置図はボストンの博士が送ってくれたものである。

神社の地塊は淡水郡淡水街淡水字砲台埔二八ノ一・丙となっており、隣は公會堂地塊となっているので未だ建設される前の更地であったのであろう。

この配置図の凡例には淡水社と付属稲荷社となっているが、付属の割に稲荷社は立派である。
社屋は間口2間・奥行き三間と、淡水社の横六尺・縦六尺五寸と較べると格段の大きさである。

何れにも社屋のほか、鳥居、水屋(手洗場)が設置され、淡水社には一対の灯籠もある。
付属の稲荷社の方が立派なのは、淡水神社は油車口に建設されることが決まっており、それまでの仮社屋であるのに対し、稲荷社の方はその後も恒久的に置くことを予定していたからであろう。

2月1日の本欄に稲荷社の写っている写真を載せたら台湾に渡った神社を調べている人がそれを見て「感激した」とコメントをくれた。


2011年08月10日

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ブリキのツェッペリン

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龍目井に住んでいた頃か、烽火街に住んでいた頃のことかよく判らない。

銀色のツェッペリン飛行船の玩具を買って貰ったことをおぼえている。

長さ2、30センチくらいではなかったかと思う。

銀色のブリキのおもちゃで、天上から糸で吊し、船尾にある透明なセルロイドの3枚プロペラをゼンマイで廻して旋回するものであった。

内地に帰ったときに祖母が買ってくれたものである。

戦後、「あれは福屋で買った。」という祖母に母が「福屋は広島のデパートよ。」と言うと「そうだよ。広島の福屋で買った。」と言っていた。

母は台北一高女に通っていたが、最終学年は徳山高女に転校し、そこで卒業している。

祖母も20年以上淡水に暮らしていたが、何度か山口県に行くことがあったのであろう。
広島は山口県境から30キロメートルくらいである。

福屋は電車通りの北側にあったが、1938年南側に地上8階、地下2階の新館(上掲)が建設されていた。

2011年08月11日

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淡水郵便局・分館

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大きな切妻造りの淡水郵便局は電報局も兼ねていた。
その河岸寄りに2階建ての建物があった。

19世紀に香港の貿易商、ダグラス商会の建てた上屋であったが、日本の統治が始まると龍目井界隈の土地・建物は不動産業の中野金太郎氏に譲渡してダグラス商会は撤収した。そして、その2階建ては改築などを経て郵便局に移管された。
写真で中央、やや左の切妻が郵便局本館で、右端の2階にアーチがならんで見えるのがその建物である。

母は戦時中、郵便局の為替主任をしていた。
そしてこの建屋の2階に陸軍通信隊の兵士が数人滞在していた。
朝、通信兵たちは電線や工具を持って出掛け夕方帰ってきた。
母たちはその賄いの奉仕をしていた。

幼い妹は眼鏡を掛けた通信隊員を「おとうさん」と言っていたという。
その頃、父は応召して台湾南部の部隊に赴いていたのである。
母も困っていたと思う。

いまはすっかり様子が変わってその河岸の建物のあった辺りは公園の一角になっている。


2011年08月12日

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夾竹桃

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台湾の夏で思い出すのは夾竹桃である。

広島の平和公園にも河岸に夾竹桃が沢山植えられているが、赤花のほか白花もあり矮性株も多いが、台湾で見たものはとても高く繁っており、花は赤花であった。

おそらく三芝に居たころの記憶であろうが、道沿いに密に植えられた夾竹桃が濃いピンクの花を沢山つけていた。

見上げるような高さで、生け垣などと呼べるものではなかった。

この時期になると思い出す夏の花である。


2011年08月13日

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淡水郵便局・分館−追補−

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一昨日の淡水郵便局・分館の追補である。

あれを見たMさんから電話を貰った。
父が応召したのは私が4歳のときで、復員したときは5歳であった。
従って当時のことを憶えていると言っても確かな記憶ではない。

応召したのは三芝公学校の教頭をしていたときで、淡水駅から見送られて伯父とともに部隊に向かったと聞いていたので、三芝から淡水に戻ってきたと思っていた。

家族として一緒に住んでいたMさんによると、父が応召したあとも三芝に居たのだという。
終戦になって留守家族で淡水に戻ってきたが住むところはなく、郵便局の分館に仮住まいしていたと言うのである。
そのとき、ここは市川ヲコさんが管理人をしていたそうである。

あやふやな記憶でも、こうして書いてみることによって記憶違いしていたことや関連事項が判ることもある。

淡水郵便局の分館になっていたこの建屋は香港の貿易商ダグラス商会が貨物倉庫として建てたものであったが、当時の写真と見比べてみると屋根が寄せ棟(上図)から切妻に変わっている。

2011年08月14日

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次回の淡水会は10月に名古屋で?

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昨日ちょっと聞いた話であるが、今年の淡水会は10月に名古屋で開催されるらしい。

会員名簿に掲載されているメンバーは数名で、名古屋市、四日市市、亀山市などに在住である。

名古屋には1990年から2年弱、単身赴任したことがある。
そのとき名古屋市内や、名古屋港、伊勢・志摩、岐阜の郊外など随分歩き回った。
その前年にデザイン博を見に行ったこともある。
熱田神宮そばの白鳥・名古屋城・名古屋港の3会場に分かれて開催されたが、名古屋港会場には行かなかった。
1994年にクルーズ船「飛鳥」で小笠原クルーズに出港したのは名古屋港からであった。

「淡水会」については近いうちに幹事さんに連絡をとって見ようと思う。


2011年08月15日

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善光寺で聴いた玉音放送

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66回目の終戦記念日である。

当時まだ5歳であったので記憶は非常に心許ない。
しかし、玉音放送は祖母や母など皆で聴いたと思う。
ノイズが多く、独特の抑揚のある陛下の声は殆ど聞き取れなかった。

しかし、頭を垂れて正座して寺の講堂で聴いていたなかで、あちこちから嗚咽が漏れていた。
前日から15日の正午には重大発表があるので皆ラジオの前で聴くようにという通達がながされていたので敗戦を確認したからではなかろうか?

5月に学童疎開で北投の街を見下ろす善光寺に来て、短い間にいろいろなことがあった。
下の街を銃撃していた米艦載機が襲ってきて、機銃掃射を受けたこともある。
出撃した特攻機が2機、母親の疎開している善光寺の山を3回旋回して名残惜しそうにバンクしながら南溟に飛び去るのを見たこともある。

応召していた父はマラリアや腎臓結石を患って戦後も長く後遺症に苦しんだが、とにかく生還してくれた。
自分の手で持てるだけのものと一人千円のみを持たされて千トンにも満たない船で目的港も知らされないまま引き揚げた。
両親はよく我々を育ててくれたと思う。

戦後、米軍主体の進駐軍はよほど日本が恐ろしかったと見えて、日本人の精神的拠り所を悉く禁止、あるいは否定した。
それでも日本人から日本精神をぬぐい去ることは出来なかった。
東日本の大震災で暴動も略奪も起きなかったことに世界は驚いたようであるが、千年以上にわたって日本人の心は受け継がれている。

しかし、歴史が教えるように社会に貧困や不安が拡がると一握りの人間がコントロールしようとする動きが出てくる。

彼らはその主義・主張を巧妙に綿密に宣伝しようとするが、彼らの言う「愚民」に判りやすいように主張する教義は右か左に偏っている。
まっとうな中庸な主義は宣伝活動に向かないからである。

今日一日、昨今の平和ぼけや、民主主義について考えてみることにする。


2011年08月16日

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新北市淡水区

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我らの故郷、淡水は昨年の暮れに新北市淡水区となった。

それまでは淡水鎮の含まれる台北県は2007年10月以降、準直轄市の扱いを受けていたが、2010年12月25日をもって直轄市、新北市になった。
英語表記では "New Taipei City" である。

台湾の北端部分で、東は宜蘭県、南は桃園県に接し、市域のなかに台北市、基隆市が存在する。

人口400万足らずの台湾最大の市である。
淡水区に隣接する三芝区には三芝国民小学があるがここは李登輝元総統の出身地である。

2008年1月に紅樹林生態展示館を案内したあと、木道の入り口まで案内してくれた学芸員の人に淡水で生まれたと言ったら、これほど大きな街になって吃驚したでしょうと言っていた。

2011年08月17日

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淡水会のこと

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淡水会は淡水から引き揚げておよそ30年経過して、やっと何とか生活が出来るようになった頃、木下静涯画伯など有志によって作られた。

父は1969年11月に広島で開催された第3回総会の幹事として参加した。そのときは私も母も出席した。

それから十数年経過して1985年には高松で、1986年には熱海で、何れも9月に開催された淡水会に父は出席している。
1987年は出席した記録がないが、1988年9月に広島(安芸グランドホール)で行われた第22回総会ではまた当番幹事であった。

1989年9月の第23回は福岡・箱崎で行われたが、1990年9月には淡水で第23回総会を実施している。
翌1991年に唐津で行われた第25回は11月2日に開催されたが、1992年の第26回は奈良で9月に実施された。

私は広島で開催された年度以外では1989年に福岡で開催された第23回に出席したのみである。

そして第45回にあたる今年は名古屋で開催されるという。

今回は是非参加したいと思っている。

2011年08月18日

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クラスメート

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引き揚げて帰ったあと、1947年に焦土の広島にたどり着いたが、市営住宅に入居出来たのは1949年のことであった。
小学校の4年生の年度末に幟町小学校に転校した。
その後、私立の中高一貫校に入学し、H大学の船舶工学科に入学した。
入学した約30名の新入生のうち、船が好きで造船を志していたのは自分のほかに1人しか居なかったことにちょっと驚いたものである。
それがH君であった。
出席番号が並んでいるため、体育実技でも物理・科学の実験でも彼とペアになった。
一緒に土方のアルバイトもしたし、期末試験のときは徹夜で一夜漬けもやった。
就職してからも出張すると彼を訪ね、彼も来てくれた。
9月のクラス会には久しぶりに逢えるかと期待したが体調を損ねて欠席と聞いて残念であった。
昨日、その彼が亡くなったとメールを受信したときは吃驚した。

日に焼けた人なつっこい笑顔を思い出している。

2011年08月19日

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国立台湾博物館

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国立台湾博物館は新公園(現:二二八和平公園)にある。

新公園に隣接していた大学病院に通院していた母に連れて行って貰ったことがある。

1908年に総督府が建てた博物館で、正面の道は台北駅正面の駅前大通で、表町と呼ばれた駅前大通であったという。
駅前には台湾で最も高級な鉄道ホテルがあった。
母は臺北一高女のときに、このホテルでテーブルマナーとして洋食のフルコースを経験したと言っていた。
その後台北駅は東に隣接する操車場の跡に移設されたのでこの正面の道路は現在、重慶南路と中山南路の間で、MRTの走る公園路の少し西にあたる。

1915年に完成したときは児玉総督後藤民政長官記念館と命名されたという。

戦後、台湾省立博物館に、1999年に現在の名称になった。

常設展示は台湾の歴史と自然を主体にして台湾の諸民族、地質や鉱物、多様な生物、先住民などである。

ここを訪れると時の経つのを忘れる。


2011年08月20日

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父の淡水訪問

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父は1946(昭和21)年3月に引き揚げたのち、2度淡水に行っている。

一度目は1986(昭和62)年に書道教室の仲間と故宮博物館の古美術を見に行ったときである。
このときは圓山飯店に3泊しているが、桃園空港に父の名を染め抜いた赤幕を張って歓迎して貰い、仲間と別行動で台北から基隆、野柳、石門とまわって淡水に行ったそうである。

そのとき淡水国小にも行き、陳淑女校長と乾杯している写真もある。
昔住んでいた龍目井の旧居も訪ねたという。

2度目は現地で行われた淡水会で、1990(平成2)年前後のことである。
このときは80歳近かったので団長にされたと言っていた。
そのときは25名で訪台し、現地の人達が80名くらい参加してくれたそうだ。
懇親会もあるので淡水2泊、台北2泊であった。

「茜雲」という随筆集に3部にわけて二十数編を書いているが、「台湾の話」だけは「その一」「その二」「その三」と三項にわけて書いている。
懐かしく、嬉しかったのだと思う。

2011年08月21日

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クラスメート(追補)

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今年の9月にクラス会をすることが決まっていて、名簿が届いていた。

物故者や連絡のつかないメンバーまで記載されているのに、どうも数が合わないのである。

当時、船舶工学科の定員枠30名のほかに工業教員養成課程から1名採用されることになっていた。

その枠内で合格し、最終的に入学したのは27名で、そのほかに沖縄(当時はまだ返還前)、香港、パキスタンからの留学生が居て、クラスメートは合計30名であった。

名簿には物故者、連絡のとれなくなった者のほかに、一緒に入学したが卒業年次が遅れたのもいるがそれを合わせても26名しか載っていない。

欠落しているメンバーはすぐに判った。

Y1君とY2君である。

同姓であるが出身地も就職先も違う。

当時、学科の学生が発行していた「造波」で確認出来た。

ちなみにこのクラスは卒業時に留学生を除いて全員就職先が決まっていた。
(新三菱重工業  :2
 川崎重工業   :2
 三菱造船    :6
 日立造船    :3
 石川島播磨重工業:1
 呉造船所    :3
 バブコック日立 :1
 笠戸船渠    :1
 三井造船    :1
 佐世保重工業  :2
 川崎航空機   :1
 金指造船    :1
 東洋工業    :1
 日本海事協会  :1
勿論、このなかにY1君、Y2君も含まれている(順不同))

2011年08月22日

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台湾航路の客船「富士丸」

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台湾航路の客船は当初、殆ど大阪商船の独占状態であった。
日本郵船は太平洋航路やインド洋を通る欧州航路の船隊整備に力を入れ、大阪商船は大陸や半島との航路と棲み分けていたのである。

日の丸商船隊の船腹は大戦の始まる前には英米に次いで第三位であった。
大阪商船も南米航路向けに「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」を建造するなど遠距離航路にも進出していた。

日本郵船は近距離航路を近海郵船に運航させていたが、白地に赤の二引きのファンネルマークは同じであった。

神戸を出て、門司港に寄港して基隆に航く台湾航路には大阪商船が1937(昭和12)年の春、「高砂丸」(9315総トン)を新造したが、ほぼ同時期に近海郵船が「富士丸」(9138総トン)を建造し、これに対抗した。

「高砂丸」は2本煙突、「富士丸」は1本煙突であったが乗客定員はほぼ同程度であった(「高砂丸」:一等45名、二等156名、三等700名、「富士丸」:一等31名、二等132名、三等669名)。


2011年08月23日

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「富士丸」の船内

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富士丸上甲板の二等エントランスである。

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こちらはプロムナードデッキの一等喫煙室である。

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一等(定員31名)と二等(定員165名)は個室で、三等は数人用の2段寝台室と瀬戸内海の連絡船のような大部屋もあったようだ。

二等にも三等にも喫煙室やラウンジはあったが 三等の場合、洗面所は共用であった。

2011年08月24日

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人力車

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淡水の街も道が狭かった。

いまは老街の市場のなかにプロパンボンベを3〜4台載せたバイクが走るが、当時は歩行者のみで自転車など持ち込んだら大変なことになったであろう。

自動車は乗合自動車(バス)くらいで、そのバス道路から先は歩くしかなかった。

河岸に出来た集落で道は細く、上り下りがあった。

しかも駅は町外れにあり、家並みは油車口の近くまで続いていた。

それで駅前や、龍目井の小公園には客待ちの人力車が居た。

大きな双車輪と車体の間には大きな重ねバネがあり、道路が多少デコボコしていてもその大きな緩いバネで衝撃を吸収するので街の乗り物としてちょうど良かった。

資料を見ると鉄道網が敷設される前はレールの上の台車を人が押す、いわゆる台車軌道が多かったようであるが、私はそれを覚えていない。


2011年08月25日

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台湾鉄道・淡水線の終着駅

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台湾鉄道の淡水線は1901(明治34)年8月20日であった。
これは基隆から打狗(現:高雄)間400キロ余りを結ぶ縦貫鉄道の開通より数年早かった。
当時、淡水は貿易額の6〜7割を占める貿易港であったので主都台北からの鉄道整備が急がれたのであろう。

当初、台北駅から大正街、雙連、圓山、宮の下、士林、ロ其里岸、北投、江頭(関渡)、竹圍の各駅を経て淡水まで約20キロメートルの鉄路であった。
現在のMRTとほぼ同じ経路である。

淡水から台北に通勤・通学するために蒸気機関車の曳く列車は4両編成であった。
のちに閑散期にはガソリンカーが運行されていた。
自動車のように床下に装備されたガソリンエンジンで駆動するもので、いまで言うレールバスである。

母は台北一高女に、マキ子さんは、二高女に通っていた。

父は応召してこの駅から台南の部隊に向かった。

この写真も、戦後父の教え子から送って貰ったものである。


2011年08月26日

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当時のバス

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淡水郊外を走るバスである。
しかし、これは当時の写真ではない。
アマチュアカメラマンの蔡坤煌醫師が1970年に撮影したものである。

戦前のバスは当然ボンネットバスで、勿論停留所はあったが停留所でなくても手を挙げれば乗せてくれ、降りるときも「ここで降ります」と言えば路側に寄せて停めてくれた。
左側交通であったのであろうか?

おそらく興化店や沙崙、小基隆などに行くにはバスに乗っていたのであろう。

街中は人力車があり、道路の整備されていなかった頃はレールの上に人の押す台車があったらしい。私はその頃のことを知らない。


2011年08月27日

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淡水長老派教会

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1872年にカナダ長老派教会の宣教師、ジョージ・マッカイ牧師が広州、汕頭、厦門へ赴き、そこからジャンク「海龍号(金陵号?)」で淡水の河岸に到着し、ここを布教の場と定めた。
翌年、北部台湾で初めての教会が設立された。

のちにマッカイ牧師の遺児、偕叡廉氏が設計・監督し1932年に再建されたものが現在のネオ・ゴシック風煉瓦建て礼拝堂である。

建設当時は淡水のシンボルであったが、その後大きな建物が建ち並び目立たなくなっていた。
近年周囲の整備が進み、街の旧蹟になっている。

当時公会堂のあった文化センターから細い坂道を下ったところにあるマッカイ牧師の故居にも説明パネルが設けられている。


2011年08月28日

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「淡水会」の案内到来

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本年度淡水会の案内が来た。

10月18日(火)に三重県のえらい山の中で開催されるという。

今年の「関東基隆会」は80名を越えるメンバーのほか、基隆生まれの台湾女性の会「基隆会」からも9名の参加があったという。
淡水会は何人くらい集まるのだろうか?

翌日は伊勢神宮・二見浦に貸し切りバスで行くオプションも付いているという。

この案内は旅行業者から発送されていたが、送付案内に記載のメールアドレスは@の前に英数字25文字の、いかにも間違えやすい綴りがあり、@の後はolive..plala.or.jpとなっている。
「何かご不明な点が御座いましたらお問い合わせ下さい。」と結ばれているがこれでメールが届くのかどうか怪しいものである。

2011年08月29日

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旧淡水街長官舎

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淡水の初代淡水街長は洪以南氏(1921〜1924年)であった。

淡水街長官舎であった建物は現在、「滬尾文史工作室」が郷土史研究などに使われている。
外壁には史蹟の新聞記事や、水源街にいまも立っている畜魂碑の紹介が張られていたこともある。

多田栄吉氏は1930年から1933年まで街長を務めたが、この馬偕街19号に建てた官舎には台湾で初めて個人の住居に水道が引かれたという。
淡水街長には鳥井勝治氏、小副川猛氏なども就任したと言われているが、私の両親や祖母が居たころは中原薫氏が街長としてここに住んでいた。

いまも淡水の観光ガイドブックには「淡水街長多田栄吉故居」と記されている。


2011年08月30日

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玩藝淡水−嚮樂趣

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標記ページ(http://210.60.9.1/i-tamsui/index_ja.php)を見つけた。

淡水の古蹟・観光スポットが紹介されている。

「全國商工行政服務網」、「財団法人中華発展中心」、「淡水鎮公所」、「真理大學皇冠海岸永続発展與服務創新研究中心」、「台北縣淡水鎮商圏文化観光協會」と列記してあるので公の観光ガイドであろう。

中文版、英語版のほか日本語版もある。

ここで紹介されているのは淡水街内外の31の古蹟である。

ここではガイドマップに従って列記する。
① 淡水漁人碼頭
② 淡水燈塔
③ 忠烈祠
④ 滬尾砲台
⑤ 紅毛城
⑥ 英国領事館
⑦ 牧師楼と姑娘楼
⑧ 牛津學堂
⑨ 馬偕姑居
⑩ 小白宮
⑪ 淡水女学校
⑫ 婦學堂
⑬ 八角塔
⑭ 海関碼頭
⑮ 街長多田栄吉故居
⑯ 外国人墓園
⑰ 馬偕墓園
⑱ 淡水漁業生活文化影像館
⑲ 淡水禮拝堂
⑳ 滬尾偕医館
 馬偕頭像
 紅楼
 布袋戯主題館(人形芝居のテーマ館)
 日本警官宿舎
 福佑宮
 清水巌祖師廟
 龍山寺
 穀牌倉庫
 淡水水上飛行場
 気象観測所
 山寺

である。

滬尾砲台、牛津學堂、滬尾偕医館、福佑宮などに加えて街長多田栄吉故居や日本警官宿舎なども放置され、朽ちかけていたものに手入れして保存されて居ることは注目に値する。


2011年08月31日

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文化古蹟巡禮地圖2009

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臺北縣淡水藝術舞動街坊・文化古蹟巡禮地圖(2009年版)がある。
2009年3月に訪台したときに貰ったものである。
当時は新北市なる前で、淡水鎮であった。

ガイドマップの凡例に公家機関(4)・古蹟景點(19)・渡船頭(1)・公車站牌(4)・公共厠所(4)が示されている。

このほかガイドマップには環河道路沿いには金色水岸として黄色の線が引かれており、古蹟景點(未開放・修理中)というのが13箇所あり、凡例以外にも真理大教堂・女子學校・滬尾砲台・忠烈祠などが図示されている。

4箇所の公家機関は、淡水鎮公所・郵局・淡水分局・臺北縣淡水古蹟博物館である。

19箇所の古蹟景點は、①山寺・②穀牌倉庫・③龍山寺・④清水巌祖師廟・⑤布袋戯主題館・⑥福佑宮・⑦紅樓・⑧馬偕三角公園・⑨滬尾偕醫館・⑩藝術穿堂・⑪淡水長老教会・⑫観潮藝術廣場・⑬小白宮・⑭馬偕墓園・外僑墓園・⑮理學堂大書院・⑯淡水海関碼頭・⑰紅毛城・英国領事館・⑱淡江中學八角堂・⑲日本古民家である。

13箇所の未開放/修理中の古蹟景點には番号は付いていないが、「滬尾湖南勇古墓」、「淡水水上機場」、「淡水気候観測站」、「淡水崎仔頂施家古」、「滬尾小學校講堂」、「清代古宅」、「木下静涯晝家宅邸」、「日本警官宿舎」、「藝術工坊」、「日商中野宅」、「國語禮拝堂倉庫」、「日商五連棟商行」、「淡水街長多田栄吉故居」である。
明鄭時代も清の時代も日本であった時代も含めて古蹟を保存しようとする精神は台湾ならではのものであろう。

この地圖の裏面は清法(仏)戰爭125週年を記念して「淡水古戰場」となっており、表面に匹敵する記載があるがこれはまたの機会に紹介しようと思う。


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