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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(2:丙型海防艦の輸送施設)

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海防艦のような小型艦艇でなぜ引き揚げをと訝る向きがあるかもしれない。

内地も外地も、終戦直後はひどい状態であった。

至るところが焼き尽くされて焼け野が原になり、雨露をしのぐところもなく、無論、食い物もない状態である。

海上では海軍の艦艇よりも商船のほうが被害が大きかった。

大東亜戦争で亡くなった軍人軍属は、海軍47万3800人(死亡率16%)、陸軍164万7200人(死亡率23%)と言われるが、海運・水産業の船員は6万人という。
推定死亡率で43%に達するという。

開戦前、世界第3位の保有船舶を擁していた商船の88%にあたる2500隻以上が沈没し、漁船や機帆船の喪失は4000隻を越える。

どんな小さな艦艇でも雑船でも航洋性のあるものは陸海軍の復員と民間人の引き揚げに動員された。

金属が払底し、木製の戦闘機が作られており、艦艇も商船も鋼製ではなく、木製やコンクリート製の船体が実際に造られていた。

そんな状態で、残存船艇を入渠させ、改造して輸送艦としたのである。

平時でも改造船は、設計も工作も困難が多い。よほどのことがなければ新たに建造する方がずっと易しい。
そんな中で、よく中小造船所や船渠が頑張ってくれたと思う。

艦艇や軍用機の武装解除や撤収、近海に敷設された機雷(我が国も近海の港湾や水道を敵潜から防御するために多くの各種機雷を敷設したが、米軍は大陸や南方からの物資の流通を阻止する、いわゆる飢餓作戦のために20000個以上のパラシュート付き機雷をばらまいていた。

このため基隆から内地に向けての引き揚げ船は1週間も迂回して航行しなくてはならなかった。

本来の掃海艇や掃海艦のほか、海防艦も改造し掃海任務に従事した。

瀬戸内海でも、いまだに沈設機雷の発見されることがあるが、これら掃海艇による水路啓開業務は運輸省水路部、海上保安庁設置後は同省水路部、海上自衛隊掃海隊群に引き継がれている。

最低限の水路が確保されると、これら残存艦艇には輸送艦施設が設けられ、復員、引き揚げ業務に従事した。

海防艦丙型の実施要領を紹介する。

兵装を撤去したので、砲術、水雷、機銃などを担当する乗員数は半減する(主として航海科と機関科のみで運航可)。
このために空いた乗員区画では足りないので、前後部弾薬室や水測室、爆雷庫を便乗者室とする。
兵装を撤去すると重量が余り、重心が過大に下降するので後檣以降の甲板上にデッキハウスを設け、便乗者区画とする。
准士官以上の乗員数も減りベッドが余るのでこれを利用するほか、士官寝室のベッドも出来るだけ増設した。
多数の便乗者のために固有の調理室に隣接して機械室上の上甲板(煙突直前)に別の調理室を追設し、便所は上甲板最後部の両舷に仮設した。

このようにして収容人数は次の通りとなった。

[固有乗員室]
艦長室・予備室(旧司令用)、士官寝室:16人(准士官以上)
第1兵員室(上甲板前部):14人
第2兵員室(中甲板、前檣下方):34人
第3兵員室(中甲板、後檣下方):26人
第3兵員室(船艙、旧後部弾薬庫):10人(兵員84名)

[便乗者用区画]
第1船室(上甲板後部):93人
第2船室(中甲板、前部士官室下方):70人
第3船室(中甲板、旧兵員室後部、第1船室下方):78人
第4船室(中甲板、旧兵員室後部、第1船室下方):48人
第5船室(船艙、旧前部弾薬庫):58人
第6船室(船艙、旧水測関係区画):40人
第7船室(船艙、旧爆雷庫):56人(便乗者合計443人)

かくして、排水量約800トンの小艦で一行動毎に400〜500名の便乗者を収容することが出来た。
海防艦としての定員は、准士官以上9(実際は9〜14)、下士官31(実際は32〜39)、兵117(実際は164〜196)であった。

なお、復員行動は台湾、中北支を主としていたので航続力を減じ、重油タンクの一部を廃止して船室を広くとり、真水、糧食は兵器関係倉庫をあてて増載した。

私達の乗船したのは丁型の海防艦34号であったが、丙型と類似の構造であった。

基隆を出港してから、父がハッチから後部露天甲板を覗かせてくれ、夕闇迫る基隆港を港外から眺めた記憶がある。

船室の中には木材で四周に棚が造られていたが、上下のスペースが狭く、その上で座ることも出来なかった。

おそらく、船尾部の爆雷庫のあとであったのであろう。

父の話では、出港してから乗務員に聞いても、どこに入港するのか知らなかったようである。

二晩揺られたあと、鹿児島湾に入り、鹿児島市街地の桟橋に着いた。
おそらく桜島との連絡船乗り場であったのであろう。

我々は近くの天保山小学校に移動して、その日の中に国鉄で博多駅経由浜崎まで帰ることが出来たが、しばらくここに留め置かれた人も居たようである。

ただ、現在調べて見ると鹿児島市に天保山中学校はあるが、同学区の小学校は八幡小学校である(改名も記されていない)。
天保山中学校であったのかもしれない。


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2011年11月02日 10:21に投稿されたエントリーのページです。

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