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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(3:中華民国に移籍された艦艇)

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艦艇の賠償に関して、当初の連合軍の意向は、保管中の艦艇約150隻を整備して、引き渡し発令後20日以内に必ず行動可能な状態にすることにあった。

一時仮設したデッキハウスなどは大部分を撤去し、つまり完成状態から兵装のみを撤去した状態にして船体・機関・艤装等を良好に保つことになった。

行動の目標は、一応マニラまで自力で航行しうる点においた。
整備は "Good Material Condition" とすることを要求され、次のように具体的に指定された。

1.揚錨装置を良好にすること。
2.揚艇装置を良好にすること。
3.発電機は計画力量の3分の2以上を保持すること。
4.主機械は巡航速度を出し得ること。
5.無線装置は、送信機は長、短各1台、または兼用のもの1台。受信機も同様。

保管船は各指定港(横須賀・佐世保・舞鶴)にあって、それぞれ艦種・艦型によって保管群が編成された。

米国・英国・中華民国・ソ連、4ヵ国の代表者は引渡艦船を視察し、抽選により引渡先が決定された。

中華民国とソ連は配分された全艦艇を最も喜んで受けたのに反し、米英両軍は実際にこのような艦艇で、その海軍力を増強する必要は全くなかった。
両国に引き渡された艦艇は、そのまま日本で解体されたものも数多い。

ここでは中華民国に配分された艦艇の中国名を示す。

[駆逐艦]
「波風」→「瀋陽」
「雪風」→「丹陽」
「宵月」→「汾陽」
「初梅」→「信陽」
「楓」 →「衡陽」
「杉」 →「恵陽」
「蔦」 →「華陽」
[海防艦]
「隠岐」→「長白」
「対馬」→「臨安」
「四阪」→「恵安」
「屋代」→「正安」
「14」→「済南」
「40」→「成安」
「67」→「営口」
「81」→「黄安」
「85」→「新安」
「104」→「泰安」
「107」→「潮安」
「118」→「長沙」
「192」→「同安」
「194」→「威海」
「198」→「吉安」
「205」→「長安」
「215」→「遼海」
[輸送艦]
「16」→「武夷」
「172」→「廬山」
[敷設艇及敷特]
「済州」→「永靖」
「黒島」→「?」
[掃海艇及掃特]
「14」→「掃雷201」
「19」→「掃雷202」
「22」→「掃雷203」
[駆潜艇]
「9」 →「?」
「49」→「?」
[特務艦]
「白崎」→「武陵」


見出しの写真は「宵月」である。


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2011年11月03日 06:19に投稿されたエントリーのページです。

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