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2013年11月 アーカイブ

2013年11月18日

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2013年度淡水会開催(於:新北市淡水区公所会議室)

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2013年11月14日(木)、午後4時に新北市淡水区の区役所である「区公所」2階の大会議室で淡水会が行われた。

淡水区長である蔡葉偉博士の歓迎挨拶のあと、日本から出席した(出席予定で一部、当日欠席したものも含む)に一人ずつ「新北市淡水区榮譽区民證書」が手渡され、記念写真に収まった。

2〜3年前、まだ淡水鎮といっていたときからの"Mayor"(戦前、淡水4代目の多田栄吉氏の街長宅は当時の遺跡として整備されている)はまた、一人一人に3分冊からなる箱入りの「淡水街史」を手渡され、さらに本日の記念に夕刻の淡水河/観音山を撮影した写真横額まで贈呈された。

ボストン在住の鄭博士の準備した、懐かしい、あるいは今となっては貴重な写真などでプレゼンテーションが行われた。

この歓迎会のあいだ、日本に在学していたという好青年が日本語に通訳してくれた。

この歓迎会には淡水國小の校長先生であった陳淑女女史も区役所の職員も同席して閉庁時間が過ぎるまで付き合ってくれた。

この街で生まれ育ったものには感謝感激の本年度淡水会であった。

これから少しずつ、この欄で紹介しようと思う。


2013年11月22日

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癸巳淡水紀行(1)

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ブログで知り合ったボストンUSA在住の鄭博士と、横浜の呉さんと合流して当時の鎮公所や淡水國小、三芝国小,を訪れて現地の人たちに歓待を受けてから3年が経過した。

その翌年、三重県の湯の山温泉で淡水会が開かれ十数名が参集し、昔話に花が咲いた。
しかし、昨年は淡水会が開催されなかった。

それで「今年は淡水に行きましょう」と呼びかけたが、福田マキ子さんが白内障手術の直後だったので今回は断念すると電話連絡があった。
マキ子さんが行くと典子さんと一緒に行く筈であるし、同世代の人が何人か行ったであろうがやむを得ない。
その後、電話で様子を聞いたところ「こんなに良く見えるようになった」と驚いていたから手術をして良かったのであろう。

現在馬偕博士の頭像のあるロータリーは当時、小公園とか三角公園とか呼ばれており、その辺りの地名を龍目井と言っていた。
現在は馬偕街と呼ぶようである。
その龍目井で生まれた3つ違いの妹、恭子も連れて行きたかったが差し支えがあり同行することはできなかった。

しかし幸運なことに、平成23(2010)年の淡水会で行き違いになった稲垣さんは両親や妹夫妻などと同じ日程で淡水に行くことが判ったので現地で合流することにした。

宿舎は淡水の福格大飯店に予約を入れ、私と娘は11月14日(木)9時広島空港発(桃園10時50分着)のチャイナエアラインで往き、17日(日)の同ラインで帰国する手配をした。

自宅からバス停に行き、リムジンで空港に向かった。
ちょっと早起きしたが、朝9時の国際空路が利用できるのはありがたい。

桃園国際空港に到着して國光バスで台北まで出て、圓山でMRTに乗って淡水に向かった。

2013年11月25日

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癸巳淡水紀行(2)

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リムジンバスは、國光客運1819号線を利用した。
桃園国際空港第2ターミナルから、第1ターミナルで満席にして高速道路を走るので快適である。
台北の重慶北路で降りて、淡水線圓山駅でMRTに乗り込めば、終点が目的地の淡水である。

上掲の写真は圓山のプラットホームから見た街路樹であるが、茶色い花のようなものがついていた。

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MRTの車輌は大きく、一編成の連結車輌が多い。
しかも座席がセミクロスシートだからメトロのラッシュ時にも対応可能である。
それに時刻表がない。常に「あと何分何十秒で到着」と表示されている。
台湾は儒教の国であるから、若い者が坐って居ると極自然に立って席を譲ってくれる。ありがたいことである。

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悠遊(イージーカード)である。
これをかざすだけでMRTにもバスにも乗れる。
コンビニでも使えるらしい。
高齢者は乗車料も割引きである。

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淡水でMRTを降りて河岸公園から見た駅舎である。
背後には大屯山が見え河岸には榕樹が生えている。

この駅のすぐ傍までマングローブの保護地区が広がっており、紅樹林駅から木道も整備されている。

駅の裏には漁船のための繋留柱が整備され、また少し新たな埋め立てが行われたようだ。
コインロッカーにコートや手荷物を入れてちょっと淡水の街を歩いてみた。


2013年11月26日

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癸巳淡水紀行(3)

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駅前広場から環河道路に出ると対岸に懐かしい観音山が迎えてくれる。

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MRT駅傍の舟溜まりの外に波抑えの小さな防波堤が築かれていた。
背景にはマングローブの保護林、竹囲・関渡の高層ビルが立ち、その上流は首都台北である。

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台湾の主要貿易港は基隆であるが、客船ターミナルもコンテナヤードも満杯になっているため、淡水河の河口に台北港を建設中であるが、コンテナクレーンが並んでいるのが見える。

現在、関渡大橋の河下は対岸と渡船で連絡しているが、将来計画では漁人埠頭のあたりから対岸の八里に淡江大橋が架かることになっている。

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陽射しが強いので日陰を行こうと思い、メインストリート中正路に出ると区公所(旧:鎮公所)に出た。

150メートルほど行くと右手に福佑宮、左手に公設市場がある。

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ここには観音様と媽祖様が祀られている。

その向かい側には新設された公設市場になっており、ここから眺める対岸の観音山の見晴らしがよく、市場の屋上は広い展望台になっている。

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公設市場に隣接して魚丸博物館がある。

この辺りは戦前、新店街と言っていたが、持ち主や店子が替わっても外装・内装を改装して未だに店舗として使われている。

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それにしても車道と言わず、歩道と言わずビッシリ並んでいるバイクは何時も呆然と眺めるのみである。

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馬偕三角公園まで来てしまった。

ここのあたりは戦前、龍目井と呼ばれていた。
ロータリーは当時、小公園と言っていた。

妹の恭子が生まれたのは、ボストンの鄭博士の家と斜め向かいの借り上げ官舎に住んでいたときのことであった。

2013年11月27日

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癸巳淡水紀行(4)

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小公園から細い小径を登ったところに戦前、木下静涯画伯が居を構えていた。

画伯は台湾美術展覧会創設を推し進めた日本籍画家の一人で、その台展と台湾総督府美術展覧会の審査委員であった。

画伯が台湾に上陸したのは、1918年に中国大陸(あるいはインド?)に画家仲間と行ったとき、仲間の一人が病気になり、台湾で入院したときに残って看病したのが機縁だと言われている。
その間に台湾各地で写生をしたりしてすっかり台湾に魅せられてしまったという。
1923年にこの地に居を定め、淡水河を見下ろす屋敷で風景や花を描いていた。

1946年に北九州に引き揚げ、1987年5月に満百歳を迎えられ、その翌年の8月27日に大往生を遂げられた。

新北市淡水区では三民街12号にある旧居が木下静涯記念公園として整備されている。

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この辺りは、淡水の街(旧称:滬尾)ができたときに中心地であった。
この辺りは龍目井、そこから河下側に烽火街、背後の高台の砲臺埔などには街役場、郡役所、郵便局などのほか、多くの商店も並んでいた。

街外れに淡水駅ができたので、この辺りから駅前まで商店街ができた。新店街である。
小公園のまわりは3年前に行ったときも下図のように古美術商などが軒を並べ、静涯画伯邸までは狭い石段を登らなければならなかった。

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新たに設けられた階段ではなく従前の石段から登ると「木下静涯故居」の門に出た。

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門から入ると、石灯籠を配置した庭であった。
半世紀以上放置されていた庭は随分繁っていた筈であるが新北市淡水区が2011年に歴史的建造物に指定されて以来、往時の様子が偲ばれるまでに整備されている。

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入ってきた正面の石柱を見返ったところである。

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庭の中央に吃驚するほど大きいアラビアゴムの樹が立っていた。
おそらく画伯が此処に住んで居られたころから立っているのであろう。

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庭からの眺めである。
左下に馬偕頭像のある三角公園の一部が見えるが、当時は視界を遮るような建築物はなかったので夕陽に染まる淡水河口や、対岸の観音山を正面に見る素晴らしい眺望だったに違いない。

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住居はそのまま残っており、その外壁に画伯の経歴や業績が描かれていた。

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そして庭の奧には画伯の言葉「好日 好日 又好日」を刻んだ石碑が置かれていた。

さらに進むと、紅楼に出た。

洪以南の屋敷であった達観楼が、現在レストラン紅楼として使用されている。

1906年当時、紅毛城内のイギリス領事館、水上機場を設置するために取り壊された鼻仔頭の黄東茂の公館とともに淡水の煉瓦建て洋館3棟の一つであった。

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写真手前は展望テラスカフェになっていた。

中正路まで降りる途中の石段から見上げた紅楼である。

中正路をMRT淡水駅まで戻って荷物を持って宿舎の福格飯店に向かった。

淡江大学への道路、學府路に面している。

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部屋は16階で大屯山に面しており、1601号室であった。

一休みして区公所に行こうとロビーに降りたら呉さんと出会った。

呉さんのへやも16階である。
しばし歓談して3人で区公所に向かう。
集合時間は現地時間午後4時である。


2013年11月28日

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癸巳淡水紀行(5)

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午後4時、新北市淡水区公所に行くと、2階の会議室に案内された。

そこにはボストンUSAの鄭博士、3年前訪問したときに台北まで迎えに来てくれ、当時の鎮公所や淡水國小、三芝国小まで我々を乗せてくれ、暗くなる頃台北まで送ってくれた博士の叔父夫妻、学童数千人の淡水國小の校長を務めた陳淑女女史などが来ていた。

やがて淡水鎮長から新北市淡水区長になった蔡葉偉博士が会場に現れて歓迎会が始まった。

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蔡区長の歓迎の挨拶は、いま兵役について和平公園の一滴水記念館のガイドをしている呉在鈞氏が和訳してくれた。

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その後、鄭博士がプレゼンテーションツールで戦前の淡水の状況を説明していた。

画面上、淡水会会員歓迎とあるが今回は、三年前に里帰りした鄭宏銘氏、呉信祐氏、それにもし福田マキ子さんが同行してくれるなら淡水会のメンバーも参加してくれるかもしれないと、「淡水人の集い」としてウェブで提案したものであった。

終戦後淡水からの引揚者有志の会合である「淡水会」のメンバーは一時は300名を越していたが、現在は百名程度である。

一昨年までは、毎年開催されていた。

幹事が会場を設定して案内状を出していた。
開催地で集散が基本であったが、毎回2泊で行われていた。
初日は淡水会の総会で、翌日は淡水小学校同窓会といった名目であったようだ。

一昨年は三重県の湯の山温泉で2011(平成23)年10月18/19日に行われた。
このときは呉さん稲垣さん我々親子を含めて17名参集したが、翌年は開催されなかった。福田マキ子さんの話によると在京の数人は頻繁に会合をもっているという話である。
マキ子さんは、いつも娘の典子さんと出席すると言うし、マキ子さんが行けば2〜3人は同行者が出るかも知れないと期待していた。

しかし、マキ子さんは9月に白内障の手術をうけたこともあって今回は断念すると連絡があった。

稲垣さんは親御さんや妹さん親子と淡く水に墓参に行くというので現地で再会することができた。

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席上、蔡区長からメンバーそれぞれに淡水榮譽區民證書が手渡された。
蔡区長と呉さんの受證記念写真である。

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稲垣さんの淡水榮譽區民證書は鄭博士が代理で受け取った。

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福田マキ子さんと恭子の淡水榮譽區民證書は純子が代理で受け取った。

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そして、それぞれに今年新たに編纂された淡水鎮志(3分冊)が贈られた。

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さらに黄仁傑氏の撮影した横枠写真「印象淡水」(淡水區長 蔡葉偉 敬贈)も戴いた。

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新北市淡水区の職員も退庁時間後まで一時間余り付き合ってくれた。

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鄭博士の右は、父 研一が帰台したときにお目に掛かった陳淑女女史である。

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そのあと、中正路の福来レストランで大きなテーブルを囲んで食事会となった。
鄭博士には大変ご馳走になった。
区長は都合がつかないので歓迎会で通訳をしてくれた呉在鈞氏が代理で出席してくれた。
氏は日本の大学で菓子造りを学んだそうだ。
兵役が終わったらパティシエとして店を持ちたいと話していた。

油車口で描いていた著名な楊三郎氏の美術館(新北市永和区博愛街)の夫妻も同席してくれた。

私は榮譽区民證書を戴くようなことはしていないのに、淡水の街の人たちが祖母や両親の頃の縁を覚えていてくれているためにこれ程歓迎して貰えるのであろうと感謝するばかりである。

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