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癸巳淡水紀行(10)

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生まれ故郷 淡水を訪ねて夢のような時間が流れたが、もう帰国する日となった。

純子は「何も予定がないなら淡水河リバークルーズも良いかもしれないよ。」と言ってくれた。
とりあえず、カフェに行って朝食を摂る。

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和洋華何でもある。
人の少なくなったところでゆっくり食べた。

窓の外はエントランスの駐車場で、前夜宿泊した観光客が何台ものバスで出発したあとである。
このカフェがあまり混まなかったのは、団体客は別のフロアでサービスしていたらしい。
部屋に戻っていると呉さんから電話があった。
一昨日、孫秀さんが周明徳さんのところへ連れて行ってくれることにしていたがホテルフロントの連絡ミスで行き違いとなり、面会が果たせなかった。
その周明徳さんに渡す私の名刺を呉さんの泊まる台北のホテルに郵送で届けて欲しいと言う。
呉さんが孫さんに手渡し、それを周さんに渡してくれるという話である。
今日、我々は台北経由で帰国するのであるから南京東路の国王大飯店のフロントに預けることにした。

そうと決まれば、祖母が公会堂の管理人を辞めてから、父の同僚教師の丹羽さんが転居したあと住んでいた、当時龍目井と言っていた辺りをゆっくり歩いてから台北に出ることにした。

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MRT淡水駅前の河岸公園に行った。
この辺りには当時施合発の埠頭があり、製材工場や鉄道の引き込み線があった。

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河岸には漁船が舫われている。
台湾の漁船は外弦を水色に塗り、舳先には眼が描かれている。
沖合で操業していて、漂流してもこの眼玉を描くことにより祖様のお導きで母港に帰れると信じられているのであろう。

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戦前は大きな中洲があった。で蟹や貝を採りに行ったりしたものであるが、今は水流によってなくなってしまった。
それでも、岸辺近くに砂が堆積して洲を作っている。

MRT淡水線は、ほぼ戦前の臺鐵淡水線に沿って建設されている。
臺北駅を起点、淡水を終点にして途中、大正街、双連、圓山、宮ノ下、士林、芝山巌、北投、江頭(関渡)、竹囲の駅があった。

MRTを建設するとき、竹囲と淡水の間に紅樹林という駅を設けた。
戦前から在ったマングローブの保護林になっていて、今は立派な木道も設けられている。
戦前は、駅からほど近い鼻仔頭に黄東茂の豪邸があった。
当時、淡水に煉瓦造りの洋館が三ヶ所あった。
紅毛城内の英国大使館、崎仔頂老街の達観楼、それに鼻仔頭の黄東茂の公館である。

達観楼は洪以南の屋敷であったが、洪以南が淡水街に移管されたが戦後放置されていた。現在は往時の姿で復元され、レストランとして運営されている。

黄東茂は五舎と呼ばれていたが、その屋敷には大門、車庫、守衛所、汽艇庫、遊泳池などのほか網を張ったゴルフ場まであったといわれるが、1939年に水上飛行場を造るために全て日本に買収され、鼻仔村とともに一切消滅した。
いま辛うじて、MRT淡水駅舎の河岸側から學府路につながる道路に鼻頭街という名が残るのみである。

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河岸公園では何人かが釣り糸を垂れていた。

この写真の左奥には未だに水上生活者の杭の上に建った小屋が数軒残っている。
しかし、新北市当局も積極的に廃棄するでもなく朽ちるのを待っているように見える。

正面の煉瓦建て倉庫は嘉士洋行の「殼牌倉庫」(シェル倉庫)と呼ばれる建物で現在、淡水文化基金会の社会大学が使用している。
1897年にイギリスのシェル石油が買い入れていたものである。

そして、右奧に見えるのが浮舟のついた水上飛行機を整備したり、格納庫に収容するために引き揚げた斜面(通称「スベリ」)である。
この辺りも再開発のために埋め立てられるという噂はあったが、未だ残っていた。

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そのスベリの辺りは未だに軍が管理しているようで近づくことは出来ない。

ここに水上機の基地が出来ると台湾南部の東港から水上観測機が配備され、気象観測を行っていた。
飛行場があるから気象観測が必要なのか、淡水に測候所が出来たから気象観測を行ったのか判らないが戦後、ここに国府軍空軍の気象観測隊が配備された。

かれらの住居として、街長宅の傍にあり日本人が引き揚げて使われていなかった公会堂洋館が仕切り板で細かい区画に分けて使われていたという。

そして、素人のタコ足配線による屋内配線から漏電し、私の生まれた公会堂洋館は焼け落ちてしまった。

引き揚げたのは6歳の頃であるから、ここを基地にしていた零式水上観測機が河面を滑走していた姿や、バンコクやシンガポールと内地を連絡していた川西式大型飛行艇が着水していたことも覚えているが、水上飛行場や測候所と公会堂の縁があったことは後に判明したことである。

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河岸公園にそって馬偕博士の頭像のあるロータリーに向かった。


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2013年12月10日 16:01に投稿されたエントリーのページです。

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