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淡水概史 アーカイブ

2010年10月29日

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淡水概史

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周婉窈著「図説 台湾の歴史」によると3〜5万年から台湾に人が住んでいた。

中国大陸では随時代に台湾の存在は知られていたという。
宋時代には台湾海峡の澎湖諸島には漢人が定住し、元のころに澎湖諸島は元の版図に組み入れられていた。

しかし、台湾本島に漢人が渡ったのは清朝になってからであり、その地域も台南・高雄周辺の南部平野に限られていた。

16世紀になるとポルトガル人・スペイン人・オランダ人が貿易の拠点として出没をはじめた。
オランダは台南にゼーランジャ城、プロビンシャ城を築いてこの地域を占領し、1662年に鄭成功によって駆逐されるまで その台湾統治は39年間に及んだ。

この間1626年にスペイン人が淡水・基隆一帯を占領し、城塁を築いたが1642年にオランダ人によって追い出された。

淡水鎮公所のウェブページ(http://tamsui.gov.tw/about_tamsui/)によれば、1629年にスペイン人が現在の淡水に拠点を築いていたがオランダ艦隊がこれを攻め、オランダは追い返された。
1634年にスペイン人約200人が居たという。
1640年代にオランダが基隆や淡水を攻めてスペイン人を追い出し、1646年に、いま紅毛城として知られる砦を構築した。
1661年に漢人を父に日本人を母にもつ鄭成功が台湾を治めた。
オランダ人は投降し、基隆や台北を捨てて敗走した。

鎮公所の資料によれば1829年に滬尾(淡水の旧称)の人口は約1200人であった。
1862年にイギリスが紅毛城に領事館を置き、1867年には永久租借とした。

1871年に台南に漂着した琉球漁民54名が台湾原住民に殺害され、翌々年には岡山県の漁民4名が同様の被害を受けた。
日本政府は清国政府に善処を求めたが、清国側は「化外の地」であるとして応じなかったので1874年に台湾出兵を行った。
これより先、日本は1872年に福建省福州に領事館をおき、台湾の業務もそこで行っていた。

1883年には清仏(清法)戰争が起き、翌年フランス艦隊の陸戦隊が滬尾に上陸している。
その戰争は1885年に講和となったが、港湾防御の必要性を痛感した清は翌年ドイツから工兵大尉マックス E.ヘヒトを招聘して滬尾砲台を構築した。

1888年の淡水港の貿易額は台湾全体の74.9%であったという。

1894年に朝鮮半島をめぐって日清戦争が始まり、翌年の講和会議で台湾は日本に帰属することになった。

1895年6月17日に台北で始政式が行われ、その翌年には滬尾日語傳習所が設けられ、淡水港の糖税及樟脳検査所、滬尾街郵政電信局、滬尾警察署及各地派出所が設けられ、台北から淡水への道路も修復された。
この年の人口調査で淡水の人口は6344人と記録されている。

1897年には日本郵船が淡水・福州航路、香港・淡水航路を開設した。

1898年には日語傳習所は滬尾公学校と改称され、この年10月には滬尾伝染病隔離所が設置された。

1899年3月26日に淡水小学校が設立され、4月2日には大阪商船が淡水・香港航路を開設し、この年淡水と基隆が台北地区の樟脳輸出港にしていされている。

淡水で布教し、治療や教育を施したカナダ・キリスト教長老会初の海外宣教師であったジョージ・レスリー・マッカイ博士が1901年6月2日に亡くなった。享年58歳であった。
この年、淡水線の鉄路が竣工している。

1903年5月に滬尾公学校の校舎が落成した。同年12月1日には滬尾から小基隆(現:三芝)間の道路も開通した。

この頃基隆の貿易額が淡水を越え、1906年には淡水税関基隆分署が設けられ、1909年には淡水と厦門、福州との航路が廃止された。淡水河の堆積がすすみ大型船の入港が難しくなったのである。

1910年には淡水と長崎のあいだに海底電線が敷設され、1912年には滬尾支廳は淡水支廳に、滬尾公学校は淡水公学校に改称された。


(工事中)

(滬尾/淡水に関する歴史や関連人物は「漁人碼頭的戰爭」(http://danshuihistory.blogspot.com/)に詳しく述べられているので是非参照のこと)
 


2011年02月13日

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杜聡明博士

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今日、カリフォルニアのLCさんからファイルを送って貰った。

淡水国小創立百周年記念式典で表彰された杜聡明博士の話である。

「台日交流秘話:植民地時代の阿片政策功労者・杜聡明博士
 −北投石発見者 岡本博士との温かいきずな−」と題する15千字の記事である。

一気に読み終えた。

杜博士は台湾出身で初めて医学博士号を授与された方である。

淡水公学校→淡水国小で表彰された5人のうち、筆頭が杜博士で、第二位が李登輝博士、第三位が著者の周明徳氏、第四位はプロゴルファの陳清水氏、第五位は滋善事業家の施乾氏である。

このなかで北投の善光寺には岡本博士の顕彰碑が建っていることを知った。

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[著者:周明徳氏(気象技官)」


2011年03月12日

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淡水線の列車転覆

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淡水線では1932(昭和7)年8月24日に大きな事故があった。

上掲の写真は淡水区公所の公式ホームページの「認識淡水・淡水大事記・日據時代」の一部を撮したものである。

竹囲・江頭(関渡)間で颱風のため、列車が転覆し41名が溺死したと記されている。
淡水獸疫血清製造所ができた翌年のことである。

そして、昨日(2011(平成23)年3月11日)、東日本で関東大震災の10倍もの大震災が発生した。走行中の列車と連絡が途絶し、停車していた一編成が津波に飲み込まれてしまった。

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東京電力の福島第1原子力発電所は爆発音がして白い煙があがったと報じられ、同第2発電所も半径10kmの住人に退避指示が出されている。
この地震の余震はまだ続いており、津波警報も引き続き発令中である。
人的被害も4桁を越えると思われるが、未だ被害を評価できる時期ではない。


2011年03月13日

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淡水と肥前長崎との絆

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九州・長崎と淡水との絆は太く永い。

前掲の淡水区公所の公式ホームページの「認識淡水・淡水大事記・日據時代」によれば1910(明治43)年に 淡水・長崎間に海底電線が敷設されている。

上掲のケーブル敷設船は三菱造船下関造船所で建造され当時の国際電電に引き渡された「KDD丸」(下関造船所第633番船:1967年竣工)である。
ケーブル敷設船の設計者として第一人者のK博士が設計統括としてまとめ上げた海洋電線敷設船である。
まだ造船企業に居た当時、事業所は違っても親しくお話しさせて貰っており、技術担当をしていた浚渫船の学位論文を書くときに博士の論文を貰ったことがある。
私の場合、論文を査読して貰っていた九州大学のO教授が亡くなったので審査も受けないままになってしまった。

昨年 淡水を訪問したときに三芝国小を訪問したが、そこで案内してくれた教務主任Yさんは長崎市の稲佐小学校に出張したと言っていた。

手を伸ばせば届くと言うわけには行かないが縁は深い。


2011年04月26日

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淡水公会堂の建造時期

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「1909年4月に完工した淡水公会堂は、主に一般市民に図書閲覧、食事と囲碁将棋、交流と健康などの芸術文化活動の場所を提供していた。淡水税関の「五十会」と「商船会社倶楽部」が共同で建設した。この建物は淡水教会西側の坂道を登った丘の斜面に位置し、東側は淡水稲荷神社(現在の淡水鎮立図書館所在地)に接し、総立て坪70坪あまりで、当時の淡水では最も規模の大きな文化施設であった。日本人、台湾人に関わりなく、みなここで各種の活動に参加できる「淡水公会堂規則」に拠っていた。しかし、惜しいことに戦後、火災で失われてしまった。」
(日本年特展:日本特別展覧会、拝啓 日本様 −淡水より−)
淡水古蹟博物館四周年慶特別展示(2009年12月23日)

淡水の歴史を扱っている「漁人碼頭的戰爭(http://danshuihistory.blogspot.com)」では税関の職員やその他の官吏、台湾銀行や日本商社などにより「淡水倶楽部」が作られ、淡水街営の海水浴場や公会堂を建設したと述べられているが、1909年公会堂竣工には疑問を呈しており、「1918年:興建淡水公会堂(即今淡水文化大楼所在地)、1928年8月1日:淡水公会堂落成」としている。
当時としては大きな建造物だったのであろうが工期10年というのは長すぎると思っていた。
古い地図がある。それによれば淡水字砲台埔二八に淡水稲荷社(1906年11月15日鎮座)と淡水社が建っており、隣接地は「公会堂地塊」とのみ記されている。
当時は更地であったと思われる。

このたびKGさんから複写を送って貰った、周明徳氏の「続・夕日無限好」(2000年著)によれば、淡水街民が昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)記念行事として寄付金を募って公会堂を建てた(同年8月16日竣工)という。この寄付金の大半は淡水駅の近くに施合発製材工場を持っていた施坤山氏が提供したという。

ちなみに公会堂の本館も洋館も建設業を営んでいたLCさんのお父さんが請け負って建設された。
いずれにしても原田ユクが淡水街の嘱託になり、公会堂の管理を委ねられたのが1930年4月であった。

2011年06月24日

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淡水大事記

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新北市淡水区の区役所のウェブページに「淡水大事記」というページがある。

明鄭時代、清領時代、日據時期、民国時期を全部プリントすると15ページにも及ぶ淡水の詳細な歴史である。

台湾が日本に併合された翌年の1896(明治29)年に行われた人口調査で淡水の人口は6344人であったと記されている。

現在の人口が約20万と言われているから、百十年あまりの間に30倍になったと言うことである。

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終戦で淡水に住んでいた日本人も、住まいも食糧もない内地に引き揚げた。
淡水から引き揚げた人はどのくらい居たのだろう?

友人たちとインドに旅行して帰りの船で病気になった友人に付き添って台湾に上陸し、淡水の地が気に入って家族を呼び寄せて暮らした木下静涯画伯も、我々と一緒に総督府の広間で藁の上に寝たりして何処に上陸するかも判らない引き揚げ船で九州に帰った。

引き揚げて帰った人達の生活は大変であったが、30年ほどしてこの街から引き揚げた人達によって「淡水会」が出来た。

今年の淡水会には是非出席したいと思う。


2011年07月18日

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私立淡水中學校・有坂一世校長(1)

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淡水には1914年に設立されたキリスト教長老派の淡水中學があった。

隣接する淡水女学校とともに賛美歌を歌いバイブルを読み、アーメンを唱えるミッションスクールであった。

1935(昭和10)年3月に淡水中學が台湾神社を遙拝しないことが問題とされ、淡水中學撲滅期成同盟会が発足し、内地人教師が辞表を提出し退職する事態に至った。

台湾の皇民化運動の一環であろうが、台湾総督府が認可した学校であれば条例で廃校にすることが出来なかったのであろう。

結局、台北州庁に「維持財団」が淡中・淡女を接収することになった。

1937(昭和12)年に新入生が入学したが、当時の淡水中學卒では高等学校の受験資格がなかったのである。
その後総督府の認可を得て、台湾で初めての私立淡水中学校となった(淡水中學→淡水中學校)。

この淡水中学校を育て、中学生を指導したのが有坂一世氏である。

一世は秋田中学から仙台高等学校に入った。しかし、学歴は不要という父親の方針から、小学校の代用教員をやっていたが、青山学院に特待制度のあることを知り、横浜の海運会社社長宅で書生をやり、海運会社に入社した。
しかし、秋田中学の恩師から是非と頼まれて3年の期限で樺太の中学教員となった。それから樺太、酒田、糸魚川中学と転々とする間に夫人も両親も失い、条件の良い台南にわたり、台南一中に赴任して、台南州知事子息の英語課外指導などをしていたという。

いま思うと無理があるが台南第一中学に3月、淡水中学に3月の輪番勤務を強いられ、結局台南第一中学を辞めた。

生徒の大多数が台湾人である私立淡水中学校長に赴任した有坂一世氏は名門中の名門であった台北第一中学校から次男を認可以前に淡中に転校させ、台北市の建成小学校を卒業した3男も淡水小学校に通っていた4男も淡中に入学させた。

1940年に卒業した第一期生は人数も少なく、ミッションスクール時代は総督府に認可もされていなかったので高校に進学したものはいなかった。

しかし、その年の3月上旬に淡中の4年生で台北高校を受験した李登輝氏が合格したのである。

有坂校長は併設されていた淡女の校長も兼務していた。

いま名門の名をほしいままにしている伝統校、淡江中學は淡水中学校・淡水女学校の後身である。

2011年09月01日

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紅毛城概史

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1628年にスペイン人がセントドミニカ砦を築き、オランダが淡水港を攻撃したがこれを撃退した。
1634年頃、200人程度のスペイン人が住んでいたという。
スペイン人がフィリピンなどの混乱で撤退したあと、オランダ人が砦を再構築し、1646年にアントニー要塞として整備された。
1662年に鄭成功がオランダ勢力を追い落とし、淡水防衛のため紅毛城の修理を行っている。
1683年に清朝がこの地を支配するようになると紅毛城は一時放棄されたという。
数十年後に大規模な修復が行われたが、清の鎖国状態からやがて放置されてしまう。
1858年に天津条約で淡水が開港されることになるがこの条約は批准されず、1860年の北京条約で開港され、1867年に紅毛城一帯はイギリスが永久租借し、構内に領事館を建てた。
1896年に日本による台湾統治が始まると、1912年に日英政府間で租借協定が締結され領事館はその後も維持されていた。
1941年に大東亜戦争が始まると日本に接収され、戦後イギリスに返還されたが1972年に台英断交によりイギリス領事館は撤退した。その後紅毛城はオーストラリア大使館により代行管理が行われたが、台豪断交によりアメリカ大使館が管理を行い、米台断交後はアメリカの在台協会により1980年まで管理が継続されていた。同年6月30日に台湾政府に返還され、1984年から一般公開されている。
国家一級古蹟に指定され、紅毛城とイギリス領事部に分けて管理されている。
但し、入場料を払って入場すれば両部間の仕切はなく自由に行き来出来る。


2011年12月14日

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滬尾から淡水へ

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淡水街は以前滬尾と呼ばれており、いま馬偕博士の頭像のある龍目井のあたりから紅毛城近辺の烽火街にかけての河岸地域、それに沿った高台の砲臺埔あたりに大多数の人が住んでいた。

紅毛城はスペイン人が築いた要塞であったが、スペインが撤退したあとはオランダ人が17世紀に再建したという。
1867年以降、イギリス政府が租借し、英国領事館を建てた。

その少し前、北京条約により淡水、基隆、安平、打狗(高雄)が開港されたが、台北に近いこともあって淡水港の取扱量が圧倒的に多かった。
清朝は税関業務をイギリスに委ね、その税務官の官邸が建てられた。
これが、現在古蹟になっている小白宮である。

当初、北台湾の主要輸出農産品は米で、福建から日用品や雑貨を積んできた船が米を積み出していた。
開港後は、茶、樟脳、石炭、米が輸出されるようになり、太古洋行(ダグラス海運)などが土地を借りて居住し、倉庫を建てたりしていたが、馬偕博士が厦門から帆船「金陵号」で滬尾に上陸したのもこの頃である。
このようにして医院、礼拝堂、外人墓地なども造られた。

馬偕博士は「淡水は繁華な街で、ほかの街と同じように、市内には市場があり、漁師、農民、庭木売りや花売り、物売りが大声で品物を売っている。米穀店、阿片窟、廟、薬品店などが軒を連ね、店の旦那たちが通行人を呼び込んでいる。木工店、鉄工場、理髪店、車夫などが街道の往来を行き来し、街には黒煙がもうもうと立ちこめていて、相当汚い。医院の近くに礼拝堂と宣教師の宿舎があり、近くには汽船会社の小さな事務所が幾つかある」と述べている。

台湾総督府が台鐵淡水線を敷設したときに設置した淡水駅は、現在のMRT車站と殆ど同じ場所であったが、当時は淡水の街外れであった。

1920年に福佑宮の前に公設市場が開設され、商業地区は新店一帯に移り始めた。この地区の商店は種類が多く、台湾人と日本人の店が混在していた。郡役所、税関など官公庁舎は主に烽火街に置かれ、商店街と官公庁の棲み分けが実現した。

以前からこの地区は滬尾と呼ばれていたが、滬尾公学校、滬尾警察署なども順次、淡水公学校などと改称された。


2012年03月28日

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五十会倶楽部

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1900年前後の十年間、淡水は台湾の貿易額の6割以上を占める貿易港で、税関が置かれていた。

しかし、基隆の港湾整備が本格的に行われた結果、その税関業務は基隆に置かれた税関支署に移された。
1900年に淡水税関長の中村純九郎が発起人になって作られた「五十会倶楽部」が税関事務所を再生させ、談話室や遊技場、食堂が設置され、会員が読書、囲碁、撞球、卓球、水泳、庭球などに興じていたという。

一説には淡水税関の「五十会」と「商船会社倶楽部」が共同で、あるいは両社が統合されて「五十会倶楽部」になったという。

その「五十会倶楽部」は、台湾で初めての淡水海水浴場、台湾ゴルフクラブなどを建設し、昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)記念行事として寄付金を募り淡水公会堂を建てた。

これらの設備は当時の淡水街が管理し、嘱託に委任していた。

淡水の文化発展に及ぼした五十会倶楽部の功績は大きいものであった。


2013年02月27日

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上下水道の整備は淡水が最初であった。

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稲葉紀久雄氏による「近代水道を敷設した都市の医師:浜野弥四郎」によると1896(明治29)年、8月にバルトンと一緒に台北に行ったが、駅で衛生課長、文書課長とともに彼らを迎えたのは淡水の水道事業の主任をしていた牧野實技師であった。

LCさんが昨年、1975年に渡米後最初に帰国したときに撮った写真を送ってくれたが、そのメールには次のような事情を教えてくれた。

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淡水は台湾で最初に水道を敷設した。1899年のことである。
大屯山の麓から重力を利用して泉水を淡水街まで引いて供水した。
当初は個人の家屋に配管するのではなく市街地に23箇所の消防兼用の供水栓(水道頭、あるいは水管頭と呼ばれた)を敷設した。
附近の婦人連が炊事や洗濯をしながら「水道頭端会議」で情報交換をしていたのであろう。
子供は冬でも、ここで冷水浴で遊んでいたという。
(個人の家に上水道を敷設したのは砲臺埔の淡水鎮長官舎であったと言われている。)
なお、当時は写真の水管頭の頂部に半球型の蓋があったそうである。

日本特別展示会「滬道日安」(2009年12月23日)の資料によれば、1895年7月に台北縣淡水支庁長大久保利武がデンマーク人電信技師ハンソンに委託して実地調査を行い大屯山麓の水頭と滬尾に4ヶ所の湧泉を見つけ、滬尾水源、双頭、第三、第四湧泉を水源とする「淡水水道敷設計画」が提出された。

牧野實がバルトンと浜野を迎えに行ったときには、敷設工事に着手する直前であったらしい。

1899年にはバルトンが亡くなり、浜野が台北、台中、基隆などの上下水道を手掛けることになる。

台北の上下水道敷設は首都東京よりも先であった。
伝染病を撲滅し、都市の近代化を図るためであった。
児玉源太郎総督、後藤新平民政長官の頃のことであった。


2013年07月29日

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淡水に進駐してきた水上爆撃機「瑞雲(ずいうん)」

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第六三四航空隊は1944(昭和19)年5月1日に開隊された。

所属は第三艦隊・第四航空戦隊である。

開戦初頭は、第一航空艦隊は「赤城」、「加賀」。第二航空艦隊は「蒼龍」、「飛龍」。第四航空戦隊は「龍驤」、「大鷹」(のち「祥鳳」に変更)。第五航空艦隊は新造の「翔鶴」、「瑞鶴」であったが、ミッドウェイ海戦で「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」を失うなどしていたので、1943(昭和18)年に伊勢型戦艦「伊勢」および「日向」5番、6番砲塔を撤去して飛行甲板を設置し、航空戦艦とし、第四航空戦隊としていた。

第六三四航空隊の編成は
航空戦艦「伊勢」: 艦上爆撃機「彗星」8機
  水上爆撃機「瑞雲」14機
航空戦艦「日向」: 艦上爆撃機「彗星」14機
  水上爆撃機「瑞雲」8機
であった。

新編時の首脳部は「司令兼副長:天谷孝久中佐(海兵51期)」、「飛行長兼通信長代理:江村日雄少佐(海兵57期)」、「飛行隊長:田村与志男大尉(水爆)、木塚忠治大尉(艦爆)」、「分隊長:永井宗友中尉(偵練)、石野正治中尉(偵練)」、「整備長:岩元盛高大尉(海機47期)」などであった。

1944(昭和19)年5月1日に、航空戦艦「伊勢」、「日向」で第四航空戦隊を編成し、第六三四海軍航空隊を付属させて第三艦隊に編入されたわけである。
艦上爆撃隊は岩国基地、水上爆撃隊は呉基地で錬成を始めた。
1944(昭和19)年6月23日には広島湾で最初のカタパルト射出訓練を実施したが、9月頃までには500キロ爆弾搭載の22機を30分以内に発進させる目標であった。(ちなみに日本海軍では航空母艦から艦上機を発進させるときにカタパルトは使用していなかった)

1944(昭和19)年7月10日に改装空母「隼鷹」が、同年8月10日には改装空母「竜鳳」が第四航空戦隊に編入され、第634海軍航空隊は
戦闘第一六三航空隊: 零戦48機(定数)飛行隊長福田澄夫大尉
戦闘第一六七航空隊: 零戦48機(定数)飛行隊長福田澄夫大尉
  彗星24機(定数)飛行隊長木塚忠治大尉
  天山24機(定数)先任分隊士渡辺 譲 大尉
  瑞雲24機(定数)飛行隊長田村与志男大尉
となり、同8月から艦上爆撃隊、水上爆撃隊は岩国基地で錬成を開始したが、水上爆撃隊は夜間訓練のため鹿児島県指宿基地に移動した。

1944(昭和19)年10月には六三四航空隊の全てと六五三航空隊の主力は母艦部隊から離れ基地航空隊として第二航空艦隊(第六基地航空部隊)に編入された。

同年10月に台湾沖航空戦が始まると、六三四空は沖縄を経由して米機動部隊を攻撃、台湾・台中基地に移動した。
この際、水上爆撃隊は東港基地に進出した。

なお、1944(昭和19)年7月10日には横須賀海軍航空隊で偵察第三〇一飛行隊(水上爆撃機「瑞雲」24機(常用18機、補用6機)、零式水上三座偵察機)が編成されている。

その後、フィリピン方面および東港基地から出撃していたが、1945(昭和20)年3月中旬、淡水基地と周辺の士林に基地を設け移動。
同年3月27日に奄美大島の古仁屋基地に前進、本隊は淡水基地、補充及び錬成は福岡県玄海基地で実施。

毎日のように沖縄周辺の敵艦船を攻撃、殆ど戦果は不明なるも同月29日には戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦7を発見し戦艦に6番爆弾2発名中、4月20日には大型駆逐艦1隻轟沈、5月20日には中型輸送船1隻轟沈、5月23日に駆逐艦1隻轟沈などが確認されている。


About 淡水概史

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