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淡水会 アーカイブ

2010年11月06日

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淡水会について思うこと(1)

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昨日の本欄で述べたように、淡水会員が多く住んでいる地方は九州と関東が最も多い。

都道府県別に列挙すると、神奈川県(15名)、福岡県(13名)、鹿児島県(13名)、東京都(10名)、熊本県(8名)、埼玉県(7名)、千葉県(5名)と、上位7位までが関東と九州である。

従って、国内の何処かで淡水会を開催しようとすると、多くの人が5時間もかけて新幹線(東京・博多間)に乗らなければならない。
国内の航空路を利用すればフライト時間は短いが、空港には半時間以上前に窓口に行かなければならない。
日本も狭いようで広い。

ところで国際線は最近、空路が大幅に拡充され 羽田・台北間の定期路線も開設された。東京から博多まで新幹線の所要時間より短時間で行き来できるようになった。

航空運賃は新幹線と違って季節変動が大きいので一概に論じることは出来ないが東京・博多間の新幹線料金とほぼ同レベルである。

昨年は松山(道後温泉)、今年は東京で行われた淡水会は来年も開催されることになっている。
そのときは、次回の淡水会を淡水で開催することを提案しようかと思っている。

そうすれば、孫さんたち淡水在住の会員も喜んで参加してくれると思う。

台湾では2010年12月25日から行政区画が変更され、淡水縣淡水街は新北市淡水区になるという。

ちなみに台北の松山空港は、主都の空港ながら福岡空港と同じくらい(いや、もっと)交通の便が良い。

空港ターミナルにMRT(地下鉄)駅があり、そこから改札を出ることなく淡水に直行出来る。

写真は、その松山空港である。

2010年11月14日

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淡水会について思うこと(2)

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一週間ほど前の本欄で、淡水会を淡水で行うことを提案した。
きょうはもう少し具体的な提案が出来ないか検討してみる。

会員は全国各地に住んでいるので、団体旅行としての集合場所は羽田空港にするのが良いであろう。
集合場所までの移動も旅行会社で手配してくれる。

現在、羽田・台北(松山)便は、日本航空・全日空・エヴァー・チャイナエアの4社がそれぞれ2往復ずつ合計8往復運航されている。

羽田から松山空港までの飛行時間は3〜4時間程度なので、ここで集まることを考えると羽田出発は午後遅い方が良い。
松山空港から淡水まではマイクロバスで移動し、その日は淡水のホテルで宿泊となる。

2日目はメインイベントである淡水会総会であるが、出来れば宿泊したホテルで懐かしい淡水の人たちを交えて開催することになるであろう。

当然、3日目は昔のままの街並みやすっかり様変わりした淡水の街を見て歩くことになるが、それぞれ訪ねたいところも違うであろうし自由行動になると思われるが希望者があればマイクロバスを使って現地の人に案内して貰ってもよい。

その日も淡水に宿泊して帰途につくことにすれば3泊4日で里帰り淡水会が実施できる。
勿論、この際淡水以外を観光したい向きにはオプションで延泊してもらうことも可能であろう。

日本から行く人数が10名、現地参加の人が10名くらいは集まるのではないだろうか?
機会を見つけて皆さんの意見を伺いたいと思っている。


2010年11月23日

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淡水鎮

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いま淡水に行っているボストンの博士が淡水の鎮長(街長)さんに淡水会の話を説明したそうです。

鎮長は淡水会のことをご存じなかったようですが、もし淡水会を現地でやることがあれば歓迎すると言っていたそうです。

とりあえず下松のFさんに相談してみようと思います。

もうすぐ台北縣淡水鎮は新北市淡水区になります。

2011年02月18日

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台湾の四画伯

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昭和初年のころ、台湾の新聞で「画伯」と呼ばれる四人の日本人画家がいた。
石川欽一郎、塩月善吉(桃甫)、木下源重郎(静涯) 、郷原藤一郎(古統) である。

石川は台湾総督府陸軍部通訳官として台湾に派遣された。同時に国語学校、後の台北師範学校の美術教師を兼務し促蒋懐、陳澄波、 藍蔭鼎、 陳植棋らの指導をしている。

塩月は台北高等学校、台北一中の美術教師として渡台したが台湾総督府美術展を創設、審査員を務めた。

木下源重郎はインド旅行の帰途病気になった友人に付き添って台湾に滞在し、この地が気に入って淡水に居を構え家族を呼び寄せて終戦で引き揚げるまでこの地の名士であった。木下静涯は教壇に立つことはなく家塾で教え、唯一内弟子としたのが蔡永氏であったと言う。着の身着のままで終戦の翌年、引揚船で北九州に帰国したが、静涯の収集品である六百点ちかい日本画が見つかったと2000年頃報じられていた。

郷原は台北一中、台北二中、台北第三高等女学校の図画教師を歴任していたという。

今日、この淡水会のブログを見て木下静涯画伯を尋ねているという人からメールが届いた。
少しでも役に立つことがあれば協力させて貰いたいと思う。


2011年03月14日

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半世紀ぶりに感激の対面

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横浜のKさんから写真を送って貰った。

3月9日に感激の対面があった。

武治さんとは半世紀ぶりの再会で、興一さんとは初めての対面であったという。

Kさんは昨年の淡水会会場を訪ねたが、興一さんは一日目のみ出席して帰られた後であった。9日に念願の対面が果たせて、とても明るい声で会場から電話を貰った。

私も電話でご挨拶し「今年の淡水会で逢いましょう」と約束した。

2011年06月28日

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今年の淡水会は何処だろう

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昨年の淡水会は東京で開かれた。

一昨年は愛媛県松山で行われたという。

未だ案内が来ないところを見ると秋になるような気がする。

今年は何処で開催されるのであろうか?
九州を希望する声もあったという。

連絡が来たら横浜のKGさんにも声を掛け、ボストンの博士にもカリフォルニアのLCさんにも、昨年訪台したときにアドレスを教えて貰った方々にも報告するつもりである。

2011年07月15日

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士林会

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士林会という組織があることを知った。

士林国民小學の元教師らにより1980年から開催されているらしい。
当初、日本人のみの会であったが台湾からも参加するようになり、5年に一度は台湾で開催されているという。

士林というのは台北市北部の士林区で、芝山巌で有名になった台湾の組織的教育発祥の地とも言える街である。

開校百四週年にあたる平成11年の大会は佐賀で開催され70名も集まったそうだ。

いまは二世が中心になって運営されているという。

今年の淡水会には、士林会との交流を提案しようと思っている。

そしてボストンの博士の言うように、淡水会を発展・永続させるために努力しなければいけないと思う。

2011年08月14日

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次回の淡水会は10月に名古屋で?

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昨日ちょっと聞いた話であるが、今年の淡水会は10月に名古屋で開催されるらしい。

会員名簿に掲載されているメンバーは数名で、名古屋市、四日市市、亀山市などに在住である。

名古屋には1990年から2年弱、単身赴任したことがある。
そのとき名古屋市内や、名古屋港、伊勢・志摩、岐阜の郊外など随分歩き回った。
その前年にデザイン博を見に行ったこともある。
熱田神宮そばの白鳥・名古屋城・名古屋港の3会場に分かれて開催されたが、名古屋港会場には行かなかった。
1994年にクルーズ船「飛鳥」で小笠原クルーズに出港したのは名古屋港からであった。

「淡水会」については近いうちに幹事さんに連絡をとって見ようと思う。


2011年08月17日

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淡水会のこと

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淡水会は淡水から引き揚げておよそ30年経過して、やっと何とか生活が出来るようになった頃、木下静涯画伯など有志によって作られた。

父は1969年11月に広島で開催された第3回総会の幹事として参加した。そのときは私も母も出席した。

それから十数年経過して1985年には高松で、1986年には熱海で、何れも9月に開催された淡水会に父は出席している。
1987年は出席した記録がないが、1988年9月に広島(安芸グランドホール)で行われた第22回総会ではまた当番幹事であった。

1989年9月の第23回は福岡・箱崎で行われたが、1990年9月には淡水で第23回総会を実施している。
翌1991年に唐津で行われた第25回は11月2日に開催されたが、1992年の第26回は奈良で9月に実施された。

私は広島で開催された年度以外では1989年に福岡で開催された第23回に出席したのみである。

そして第45回にあたる今年は名古屋で開催されるという。

今回は是非参加したいと思っている。

2011年08月28日

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「淡水会」の案内到来

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本年度淡水会の案内が来た。

10月18日(火)に三重県のえらい山の中で開催されるという。

今年の「関東基隆会」は80名を越えるメンバーのほか、基隆生まれの台湾女性の会「基隆会」からも9名の参加があったという。
淡水会は何人くらい集まるのだろうか?

翌日は伊勢神宮・二見浦に貸し切りバスで行くオプションも付いているという。

この案内は旅行業者から発送されていたが、送付案内に記載のメールアドレスは@の前に英数字25文字の、いかにも間違えやすい綴りがあり、@の後はolive..plala.or.jpとなっている。
「何かご不明な点が御座いましたらお問い合わせ下さい。」と結ばれているがこれでメールが届くのかどうか怪しいものである。

2011年09月03日

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平成23年度「淡水会」

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今年度の淡水会の開催日と場所が決まった。

日時: 平成23年10月18日(火):18時ころ

会場: 三重県三重郡菰野町千草「グリーンホテル」

場所は近鉄湯の山温泉(近鉄四日市経由)の終点から直線距離で4〜5百メートルほどのところである。

紅葉の美しそうなところであるが紅葉の見頃になってくれれば良いと思っている。

近鉄特急は久しぶりである。

難波から特急に乗って四日市で乗り換えると良いかもしれない。


2011年09月05日

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淡水会出席連絡

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先日 案内を貰っていた淡水会の出席通知を出すことにした。

私とJは新幹線でMさんと合流して名古屋経由会場のホテルまで行くことにした。

MさんはJと同室を希望すると連絡したということで、私はKGさんと同室を希望しておこう。

懇親会が終わったら部屋で、昨年淡水・三芝に行ったときのことを話すことになるだろう。

いまから楽しみである。

2011年09月07日

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ボストンの博士からメール到来

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一昨日の本欄で「淡水会」に出席の葉書を出したと報告したらボストンの博士から「よかったね」とメールを貰った。
久しぶりのメールであった。
多忙中にもかかわらず「淡水和平公園」の歴史的背景を執筆中でもあり、こちらから連絡するのを遠慮していたのである。

博士は今月18日から20日まで仙台と盛岡で集中講義を行い、淡水に行くと知らせてくれた。

9月26日には新北市淡水区の蔡区長に逢うので、淡水会のことを報告するという。

博士や横浜のKGさんと現地で合流して当時の鎮公所や淡水国小、三芝国小を表敬訪問し、もう1年が経過しようとしている。
淡水国小では校長先生に同校の現況を紹介してもらい構内を案内して貰った。
昼食に招待されて、多くの方と談笑した。

近いうちに淡水で現地の皆さんと再会したいと思う。
そのときはカリフォルニアのLCさんにもお目に掛かりたいものである。

2011年09月10日

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朗報

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昨日受信したなかに次のようなメールがあった。

「はじめまして。
 (中略)
私の曾祖父は台湾で施合発の役員をしていたそうなのですが、
戦爭とその後の引き揚げでほとんど何も資料も記録も残っておりません。
父も高齢で、段々と更に調べにくくなると心配していた折、
このブログを発見しました。
淡水会という会合や淡水のことをもっとよく知りたいので、
可能であればお会いしたく思います。
(以下略)」

ブログを書いていてこのようなメールを貰うと嬉しい。

私もよく知らなかったので淡水国小創立百週年記念式典で大先輩の一人として表彰されている気象技官であった周明徳氏の私家本から、施合発関連の箇所を引用する。

このとき表彰者の筆頭は台湾の阿片政策功労者の杜聡明博士、第二位は台湾の総統になった李登輝博士、そして第三位が周明徳氏であった。

なお、周明徳氏の御尊父は施合発に勤務し、34歳で高雄支店長に抜擢された秀材であったが、1944(昭和19)年10月12日に米艦載機が淡水を空襲したとき、淡水駅の近くで命を落としている。
また、周氏の従兄違いの許澄松氏は施合発の東勢、高雄両支店長を歴任したという。

(以下、引用)
施合発は台湾一、あるいは日本一の材木商で、1926年に株式組織に改編されたときは資本金60万圓であった。本社は従来通り淡水に置き、三つの出張所(台北、羅東、嘉義)と一つの支店(福州)と一つの姉妹店(基隆。当時の財閥・顔国年氏と共同出資)などがあった。全従業員約290名(船舶部74名を含む、但し約50名の臨時苦力を含まず。1931年現在の資料)、当時としては大世帯の会社であった。1933年に施合発が新興都市の高雄市に進出して支店を新設した。この支店は水運を利用することが出来る高雄川のほとりにあって、本社に次ぐ規模を持ち、従業員90名(約20名の臨時苦力を含まず)の世帯であった。
(引用おわり)

大きな企業で、従業員やその家族を合わせると淡水人口の4分の1になったという記述をどこかで見たような気がする。

今月28日には久しぶりのクラス会で舞子ビラに泊まることになっており、翌日そこのロビーで対面することになった。

来月開催される淡水会の開催通知も先方にお届けするよう幹事役の旅行業者に依頼した。
「淡水会」は任意団体である。
高齢になって総会や懇親会に出られなくなったからと退会した人もいる。

もっともっと会員が増えて、2〜3年に一度は淡水に集まって交歓するようになることが夢である。

市内にいる淡水出身者に機会があれば声を掛けてみようと思う。

2011年09月11日

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父のメモから(5)

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4月の「父のメモから(4)」に掲載したスケッチの一部を取り上げたものである。

何十年も前のことであり、記憶をたよりに描いているので多少の誤差はある。

名前を丸で囲っているのは人名で淡水公学校の松田常己校長は同校に建てられていた官舎に住んでいた。

街役場の右にある荒という字の書いてあるところには本願寺があり、荒操天という僧侶が住んでいたという。

左端の黒川さんというのは塩屋で、私の両親が結婚してその2階に住んでいた。

淡水劇場についてはカリフォルニアのLCさんが航空写真や資料をメールに添付して教えてくれた。

老義発、施合発というのは当初判らなかったが、KGさんが送ってくれた周明徳撰などで概要が判った。
台湾で木材を扱う最大級の企業で、後に合併して台湾木材になったという。

来月の「淡水会」で、両社に務めていた人達の子孫にあたる会員が面談出来るかもしれないと思うと気持ちが高ぶって、はやくその日にならないかと思う。


2011年09月12日

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淡水会参加予定者

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KGさんが11日現在の淡水会出席予定者リストを送ってくれた。

約16名であるが多少増減もあることであろう。

当日、出席者の皆さんに現在の淡水の街並みを見て貰おうと、事務局にインターネットに接続できるパソコンを借用したいと打診したら断られてしまった。
何でそんなところでやることにしたのだろう。
山のなかの宿に現地集合と聞いて心配そうにしている人もいた。

仕方がないのでPSPでも持っていってグーグルに繋いでみようと思う。


2011年09月13日

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奇縁

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4日前「はじめまして」と貰ったメールから、遙かに時空を越えた縁が繋がった。

一年前淡水に行き、ボストンの博士と一緒に鎮公所や淡水国小・三芝国小を訪問したKさんとメールを寄せてくれたIさんが戦前、淡水で知り合いであったことが判ったのである。

Kさんもボストンの博士もブログを介して知り合い、現地で合流することが出来た。

そして今回はメール交信の翌月に懇談することができる。

こんなことがあると、つまらないブログであるが続けていて良かったと思う。


2011年09月15日

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楽しみにしていたのに

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今年は案内が来ないので諦めていたところ、やっと案内が来たので喜んで参加を申し入れたという下松のFさんが参加を断念したと連絡してきた。

毎年、娘のNさんと参加していたが、今年はついて行けそうにないので新幹線で合流して一緒に行くことにしていた。

娘さんがついて行けないので諦めたらしい。

道中や懇親会場でいろいろ話が聞けるとおもったのに残念である。

2004年には新幹線で合流して淡水に行った。
そのときはFさんと一緒にタクシーで北投の善光寺に登った。

本堂が見えなかったので入らなかったが、寺は半地下のように畳敷きの本堂があるそうである。堂守さんが住んでる様子だったが声を掛けて入ってみればよかったと思っている。


2011年09月16日

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祐二さん、ご一緒しませんか?

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6月11日にこのページにコメントをつけてくれた祐二さん、見ていますか?

10月18日に八里の対岸に住んでいた人達の集まり「淡水会」が開催されます。

会場は湯の山温泉ですがご一緒に当時のお話しなどしませんか?

連絡を頂いたら開催案内がお届けできるのですが・・・


2011年10月04日

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パンフレットを郵送して貰った

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盛岡、仙台で集中講義を終えて台湾に渡ったボストンの博士は淡水区長に会われ、淡水会が開かれることをお話ししたとメールで知らせて貰った。

蔡区長からは淡水会の皆様によろしくと挨拶を託されたとのことである。

その後、台中市の中山医学大学から淡水会の出席者の皆様に届けて欲しいとパンフレットを郵送したと連絡が入った。

間もなく手許に届く、その資料が楽しみである。

写真は中山医学大学の一角である。

2011年10月05日

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淡水会への用意(1)

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今年の淡水会もあと2週間後となった。

出席者の皆さんに現在の淡水などを見て貰おうと思ったが、様子が判らないのでパソコンを持参することを考えている。

昔懐かしい淡水の街並みや、戦後送って貰った写真、それに1年前に行ってきた淡水の様子などを見て貰ってはどうかと思ったものである。

まもなく、ボストンの博士から郵送して貰った淡水のパンフレットも届くと思う。

写真は一年前に訪問した淡水国小である。

2011年10月14日

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淡水会で展示出来るように

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今年の淡水会も来週になった。

戦前の淡水の写真や、最近のもの、それに先日、現地から届けられた区政報告のプレゼンテーションファイルなどを展示出来るようにフラッシュメモリにコピーした。

写真などはプリントすることも考えたが、もし希望されるものがあれば後日郵送することにしようと思っている。

念のためにノートパソコンを持って行くつもりである。

2011年10月15日

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家族の一員

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淡水会が3日後に迫ってきた今日、Mさんから携帯に連絡があった。

今回は、一度出席すると連絡したあと不参加を決めたので常連の皆さんから電話があったという。

淡水の龍目井で、Mさんは家族として一緒に住んでいた。

Mさんは母のことを「姉さん」と呼び、父のことを「先生」と呼んでいた。

私は「M姉さん」と呼んでいた。

毎回、参加を楽しみにしていたので残念であろう。

常連の皆さんには私達の参加することを話してくれたそうである。

帰ったら報告に行くつもりである。

2011年10月16日

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久しぶりの淡水会

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私が淡水会に参加したのは1988(昭和63)年に安芸グランドホテルで開催された第22回と、その翌年の1989(平成元)年の福岡で開催された第23回であったから、20年以上前のことになる。
その年の名簿によると会員数は約280名であった。

今回の案内に対し、今回は参加しないが淡水に行くのであれば参加したいという返事もあったという。
日本の新幹線が高いこともあって、淡水で開催しても所要時間も交通費もほぼ同レベルであるので近いうちに淡水で行うことが出来ればと思う。

昨年、行ったときも大歓迎してくれた。淡水街長(新北市淡水区長)も歓迎すると言ってくれている。
また淡水では古蹟の復旧再開に熱心で、木下静涯画伯故居、中野金太郎氏宅、街長宿舎跡も復旧されている。
油車口の淡水和平公園にも行ってみたいものである。

2011年10月17日

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明日は淡水会

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明日、今年度の淡水会が開催される。

淡水で、開催中の国際環境芸術祭の資料も出席者にお届けしようと用意した。

新幹線で名古屋に降りるのも久しぶりである。

いまから楽しみにしている。


2011年10月19日

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平成23年度淡水会

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10月18日は平成23年度の淡水会であった。

18日に三重県湯の山温泉「グリーンホテル」の大宴会場「うぐいすの間」で懇親会が行われた。

久しぶりに参加した会員や初めて参加した会員からなどの近況報告、乾杯に始まった会は直ぐに賑やかな宴会となり、次々とカラオケが披露され和やかな雰囲気で盛り上がった。
場所を移動して、古い写真や昨年訪台したときの様子などを見て貰い、淡水から届けて貰った国際環境芸術祭や和平公園の資料を紹介することも出来た。

来年の例会は淡水でやろうと言う声も複数出ていた。先のことではあるが大いに希望が持てる。

写真は19日の朝、伊勢神宮に参拝するためバスに乗る前に撮ったものである。

所用のために1日のみで会場をあとにした会員もいたが、19日に関西から駆けつけた人も居た。今夜も賑やかに語り合っていることであろう。

伊勢神宮(内宮)参詣のあとは二見浦にもまわったが、その辺りのことは折に触れて本欄で紹介したいと思う。


2011年10月20日

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海防艦34号で鹿児島に上陸

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今回の淡水会で参加者のお話を聞いていた。

大部分の方が1946(昭和21)年に旧総督府に集合し、基隆に列車で移動して引き揚げ船を待たされて引き揚げてきたと言っていた。

しかし、3月に引き揚げた人も含めて、リバティ船で引き揚げたという人が多かった。
基隆を出港して一週間も掛かって大竹に上陸したという人が複数名居た。

一週間も掛かったのは、台湾航路を含む日本近海に多くの機雷が投下されており、ほとんど掃海も済んでいない海面を航行する危険を避けて水深の深い大西洋を迂回したり、大陸沿岸を航行して帰ったのであろう。

リバティ船と言えば、米軍の戦標船ながら航洋貨物船であり、戦時急造の補助艦艇、海防艦よりは数段マシな筈である。

海防艦で引き揚げた人は居ないのかと思っていたら、一人いた。

宮崎県から来たMさんである。

海防艦の船名は憶えておられなかったが、1946年3月という時期も、鹿児島に上陸して当時の天保山小学校に収容されたことからも「海防艦34号」であったことは間違いない。

この船は二泊三日くらいで基隆から鹿児島湾に直航した。

長さ70メートル足らず、基準排水量700トン程度のこの船は引き揚げ業務に従事したあと1947年に、当時のソビエト連邦に引き渡された。

2011年10月22日

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次回の淡水会を思う

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今回の淡水会に参加出来たことは有難かったし、嬉しかった。

豊福さん、九鬼ツーリストの吉田さん初め、皆さんに大変お世話になったことを感謝申し上げます。

次回は淡水でやろうという声も出ていた。
大いに楽しみにしている。

今年の会合が終わったばかりで来年の話をすると気が早いような気もするが、一概にそうとは言い切れない。

今回の開催案内に、参加/不参加の返信用葉書のコメントが、当日の資料として配られていたが、不参加の人のコメントに
「10月は前々からの予定が多く、変更できず残念ですが欠席致します。」、
「諦めていただけに皆様にお会いできるのを嬉しいと思います。」、
「それなりに元気ですが、選考(先行?)予約のため日程が変えられません。次機会にお願い致します。」などと言う文面もあり、そのほか、同窓会の幹事をやっているが日程が重なったとか、非常勤講師を休講出来ないとか、墓参の日程と時期が重複したというものもあった。

日程的にどうにもならない場合もあるが、もう少し前広に判れば調整できたケースもあるかもしれない(送付案内の日付けは8月26日である)。

それに航空運賃は日程によって驚くほど差が付くし、先行手配しておけばかなり割引になる場合もある。

淡水で会合を行うことになれば区役所(旧、街役場)や国小(旧、公学校)の関係者も招待することにすれば良いと思うし、淡水には最近、大きなホテルも多いし、福格飯店などはマイクロバスで送迎もしてくれる。

予定は出来るだけ早めに設定するのが良いと思う。

それに、淡水で実施する場合、全員が自己紹介出来ない場合も考えられる(今回も久しぶりに参加した人は自己紹介出来たが、常連さんは紹介もないまま懇談会になってしまった)。
そのため、各自大きな名標をつけることは必要であると思う。

現地で行う場合は不可欠な要件であろう。

淡水では古蹟の修復に熱心に取り組んでおり、旧街長旧宅、木下静涯画伯旧宅、中野氏旧宅、警官宿舎なども整備され、一部は公開されている。

淡水も坂が多いので、タクシー会社でマイクロバスを予約しておいておくのも良いかもしれない。

何かお手伝い出来ることがあれば喜んでやらせて貰う所存である。

2011年10月23日

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1991(平成3)の淡水会

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今回淡水会に出席して、以前3〜4度、淡水で集まったことがあると聞いた。

父の書き残しておいてくれた小冊子「茜雲」にそのときのことが述べられているので読み直して見た。

父は1985(昭和60)年に引き揚げて初めて淡水に行った。
当時通っていた書道教室の仲間と故宮博物院に行ったときのことである。

二度と行くつもりはなかったと書いているが、1991(平成3)年に淡水会を淡水で行うことになり、最年長であったので団長さんにされていったそうである。

そのときは淡水に2泊し、台北で2泊したという。

そのときにはこちらから行ったのが25名で、現地の人達が80名くらい集まってくれたという。

もし淡水でやることになれば、蔡区長(鎮長)や淡水国小の林校長に出席して貰い、歓談したいものである。

ボストンUSAの博士も、カリフォルニアのLCさんも、LCさんのインターネット仲間であるHさんも一緒に参加して貰ったらどんなに素晴らしい会になることであろう。

想像するだけでも楽しくなる。

写真は戦後初めて台湾に渡った際に、空港まで迎えてくれた教え子と淡水に帰ったときのものである。


2011年10月24日

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金平糖

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今回の淡水会では、いろいろな物を戴いた。

写真はその一つ、資生堂の金平糖である。

戦前の淡水にも広瀬ノブさんが「資生堂」という店を開いていた。

当時の思い出のコンペイトウは「乾パン」の包みが連想される。

保存・携帯食であった乾パンはハトロン紙で包装されていたが、その中に小さなコンペイトウが幾粒か入っていた。

戦時下でも、さすがに台湾には砂糖はあったと思うが内地や前線では甘い物は貴重品あつかいであったのだろう。
旧陸軍では「乾麺麭」と呼び、縦3センチ余り、横2センチ足らずの小型で、焼孔が2つあった。
海軍の乾パンは縦8センチ、横5.5センチ程度の大きさで、十数個の焼孔があり、10枚程度で一包にしてあった。

海上自衛隊では、旧海軍式の乾パン(カニヤ製)が採用されチューブの水飴とともに配布され、陸上自衛隊と航空自衛隊では旧陸軍式の乾パン(三立製菓)を150グラムに15グラムの金平糖が一食分として同梱されているという。
これも旧陸海軍の伝統なのであろうか?


2011年10月26日

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台湾航路の貨客船

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淡水会で泊まった部屋は二間続きの和室であった。

そこで交々に往時の話に花が咲いた。

話の中に、台湾航路の客船の話が出た。

当時は民間人の往来は船舶に決まっていた。
航路は神戸から門司に寄港して基隆までである。

大阪商船は総トン数8000トン級の「高千穂丸」、その拡大改良型である「高砂丸」(9300総トン)などが就航しており、日本郵船(近海郵船)は「富士丸」(9100総トン)などを台湾航路に充てていた。

これら3隻は、それまでの中古船と違って三菱長崎で建造した新造船であった。

当時、写真で見るように船腹にかなで大きく船名が書かれていた。


2011年10月27日

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台湾銀行淡水支店長宅跡

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18日の淡水会の居室ではいろいろな話が出た。

Tさんが、河岸沿いの中正路には未だに日本家屋が残っているという話を始めた。

「台湾銀行淡水支店長宅でしょう。」というと「そうそう。」と思い起こしていた。

しかし、「新北市淡水区」の都市計画には、旧街長官舎、木下画伯邸、中野氏旧宅、施氏旧居などは古蹟として整備されている状況が報告されていたが、この支店長宅は入っていなかったような気がする。

戦後、六十数年残っていたものを撤去するのは残念な気もするが、皆残すわけには行かないのだから仕方がないのかもしてない。

2012年03月30日

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ドイツヴァイン

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横浜在住の淡水会の仲間から美味いドイツワインが届いた。

ラインガウのトロッケンとモーゼルのリースリングである。

本当に有難いことだと思う。

賞味させて戴くことを楽しみにして居よう。

2012年09月26日

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淡水会から往復葉書が来た

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一昨日、「淡水会」から往復葉書が来た。

要旨は
『昨年「湯の山温泉」で開催した淡水会の懇親会から、ほぼ一年経ったが、本年の懇親会は未定となっている。
今回はせめて会員の「近況報告」だけでも届けたいと思い、近況を形式自由で書いて欲しい。』
というものである。

ボストンの博士からのメールでは2013年10月8日に、油車口の淡水和平公園で、太平洋戦争で不慮の死を遂げた同朋市民とともに、併せてスペイン、オランダ、フランス、日本の戦争犠牲者をも追悼する平和記念碑の広場で記念式典が行われるから「淡水会」会員の方々に伝えて欲しいと連絡を受けていた。

私も同伴者を募って是非行きたいと考えている。
(以前から「淡水会」は現地集合・現地解散で行われてきた)

このことを「近況報告」で提案しようと思っている。

これを淡水ブログに載せようとしていた矢先、楊さん(クリスチーナ)が、颱風17号来襲前の観音山と淡水河口の夕陽の写真を送ってくれた。

今回の見出しに使わせて貰った。

2013年11月18日

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2013年度淡水会開催(於:新北市淡水区公所会議室)

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2013年11月14日(木)、午後4時に新北市淡水区の区役所である「区公所」2階の大会議室で淡水会が行われた。

淡水区長である蔡葉偉博士の歓迎挨拶のあと、日本から出席した(出席予定で一部、当日欠席したものも含む)に一人ずつ「新北市淡水区榮譽区民證書」が手渡され、記念写真に収まった。

2〜3年前、まだ淡水鎮といっていたときからの"Mayor"(戦前、淡水4代目の多田栄吉氏の街長宅は当時の遺跡として整備されている)はまた、一人一人に3分冊からなる箱入りの「淡水街史」を手渡され、さらに本日の記念に夕刻の淡水河/観音山を撮影した写真横額まで贈呈された。

ボストン在住の鄭博士の準備した、懐かしい、あるいは今となっては貴重な写真などでプレゼンテーションが行われた。

この歓迎会のあいだ、日本に在学していたという好青年が日本語に通訳してくれた。

この歓迎会には淡水國小の校長先生であった陳淑女女史も区役所の職員も同席して閉庁時間が過ぎるまで付き合ってくれた。

この街で生まれ育ったものには感謝感激の本年度淡水会であった。

これから少しずつ、この欄で紹介しようと思う。


2013年12月09日

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「世界新聞網」に載った

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我々が淡水に帰ったことが台湾の新聞網に載った。

ボストンUSAの鄭博士が教えてくれたものである。

公学校・相撲


龍目井・木下静涯ほか


お礼のメールを差し上げねば・・・


ちなみに、今日は淡水街の嘱託として公会堂の管理を委ねられていた祖母、原田ユクの命日である(1960年:没年67歳)。

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