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近郊の名士 アーカイブ

2011年03月16日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

周明徳氏の著書

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今朝、横浜のKさんからメールが届いた。

 「先日KOさまからいただいた周明徳さんの著作コピーを
  昨日郵送いたしました。
  内容がたいへん濃く、参考になるとおもいましたので・・・。」

周明徳氏は気象技官であったが、淡水国小の卒業で、同校創立百周年記念式典で表彰されている。

先月の本欄の記述と重複するが、筆頭は台湾の阿片政策功労者の杜聡明博士、第2位が台湾の総統にもなった李登輝博士、そして第3位が周明徳氏である。

淡水の測候所や気象観測機のことも載っているかもしれない。

楽しみに待つことにしよう。


2011年03月17日

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「『續・夕日無限好』・周明徳撰」到来

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横浜のKさんが送ってくれた標記資料のファイルが郵送されてきた。

A4ファイル、150ページのカラープリントである。

いちいち手焼きで複写して貰ったと思い感謝して受領した。

周氏の生まれ育った淡水の話は勿論であるが、捜しても滅多に資料の見つかることのない離島、アジンコートの測候所にも勤務していたときに大和、武蔵など大艦隊を見た話や、淡水中学校の有坂一世校長の話から童謡ペタコの話までめくるページごとに釘付けになる。

ゆっくり読ませて貰おうと思う。

Kさん、本当にありがとうございました。


2011年03月18日

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お世話になった懐かしい名前

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周氏の私家本「續・夕日無限好」の第一項は淡水中学校の有坂一世校長である。
図版27葉を含めて小さい字でびっしり26ページにわたって、有坂校長の人となりや功績が記載されている。

その項の末尾近くに同校長が1970年に訪台したときの記念写真が載っている。

そこに李樹林医師の名前があった。
写真に主要人物の註が載っているが、そのなかで李樹林医師のところにのみ「有坂校長と懇意な仲」と記されている。

実は幼い頃、とてもお世話になった先生である。
両親の書き残してくれた『轍の跡:第一編:紀夫生い立ちの記(誕生より大学入学まで)』の最初のページに
「何しろ大事にし過ぎたせいか、胃腸が弱くよく医師の李樹林の厄介になったものである。」
とある。

そのページに出てくる氏名は
誕生に居合わせた者:廣川研一、原田ユク、山本保
産婆:       市川ヲコ
母:        廣川時子
医師:       李樹林
資生堂:      広瀬 信
同僚教師:     小栗兄弟
淡水公学校長夫人: 松田サト
の方々である。

1970年と言えば私が生まれてから30年経過しているが写真に写っている李樹林先生は半袖の開襟シャツで若々しい。

2011年03月19日

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アジンコート測候所

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(1994年、「飛鳥」船上より鳥島を望む)

周 明徳氏は台湾総督府気象台で4年間勤務した。

1942年4月から一年間養成所で教育を受け、その間竹仔湖、大屯山の両測候所で50日間実習を兼ねた勤務を行い、年末に10日にわたる蘭陽平原の気象調査隊に参加した。1943年1月には新港(現:成功)測候所で一ヶ月実習兼勤務を行っている。

養成所を修業したのち、花蓮港(現:花蓮)測候所に一年間技手(判任官)として任官。
その後、彭佳嶼(アジンコート)測候所に4ヶ月(1944年3月〜1944年7月)勤務した。

その後、一ヶ月台北気象台のラジオゾンデ係りを勤務したあと、新高山測候所で4ヶ月勤務し、台北気象台の通報係で2ヶ月勤務して軍隊に招集されて半年間軍務に就いていた。
復員して新港測候所長に就任、1945年11月に政権移転により台湾総督府気象台が台湾省気象局になったのでその職員となっている。

有坂一世校長の次の項は、この彭佳嶼(アジンコート)測候所勤務に関するものである。
「アジンコート/エジンコート」とウェブで引くと「百年戦争中の1415年にイギリス軍がフランス北部に圧勝したアジンコート(あるいはアジャンクール)の戦い」とか、「ウェッジウッド製ティーカップのブランド名」とか、「ブラジル海軍が発注した戦艦リオ・デ・ジャネイロを英海軍が強制的に接収した戦艦エジンコート」などとともに「台湾北部沖の孤島、彭佳嶼」が載っている。

基隆港の北東約56kmの東シナ海にあり、今も燈台・測候所・海軍の警備要員が配置されている。

しかし当時、島の人口は灯台守と測候所に配属されたほぼ25名であったという。

しかも1年365日の内、183日が暴風雨という異常な強風で木は存在できず、茅ばかりで、測候所では2坪ほどの畑を作って銛で突いた魚で暮らしていたという。

この島から望遠鏡で覗くと台湾本島の稲妻は見えたが遠距離のため雷は聞こえなかったという。

日本にも伊豆七島と小笠原諸島の間の東京南方約600kmに鳥島があり、かつては測候所もあった。

今も当時使われたと思われる廃屋約10棟を見ることができる。

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山頂に見えるのは測候所の跡であろうか?

ジョン万次郎ら5名が鳥島に漂着し3ヶ月後にアメリカの捕鯨船に救助されているが、漂着した者のなかには1785年に土佐から漂流しアホウドリを食いつないで12年間生活し、後から漂着した者達と一緒に船を造って青ヶ島に脱出した漁師、野村長平のような例もあるという。


2011年03月25日

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李樹林医師(LCさんのEメールから)

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(上図再掲)

周明徳氏の「續・夕日無限好」に記してあったことに基づいて一週間まえの本欄で、幼い頃とてもお世話になった李樹林医師のことを書き、その3日後に淡水が空襲を受けたことを記した。

これを読んでくれたLCさんから李医師のことや周明徳氏の御尊父が空襲の犠牲になったことなどを知らせてくれた。

『このブロッグで周明徳さんの父上が1944-10-12日の空襲の被害者と知りました。彼のお父さんは当時施合発木材会社の職員だったから、多分、駅前の会社で直撃弾を受けて亡くなった人たちの一人だったと思われます。投弾した飛行士が私と文通したグラマン戦闘機の操縦士だった可能性もあります。拙作「グラマン艦載機」参照。家の姉さんの話では、その日、いつもの通りなら駅前でお茶の一服をする親父が鍬などの工具を携帯していたから裏道を選んだとか、お陰で災難を免れたとのことでした。

人口一万足らずの田舎町の町医者、李樹木先生がまた登場してきました。淡水の町医者といえば蘆秋貴先生が第一番目にあげられます。蘆先生は杜聡明先生と公学校時代から医学校までの同窓でした、一人は研究、別の一人は臨床の道を選んだわけです。李先生が開業した四十年代当時、淡水にはボストンの鄭博士の父上、鄭子昌先生や228事件で殺された張七郎先生なども開業していましたが、一生を市民奉仕に捧げたのは李先生一人だけでした。

李先生の祖、先祖伝来の家は小坪頂への途中、淡水駅を右手に見ながら公共墓地を超え、水上飛行場と測候所を過ぎると紅木樹林が見えてきます、そこで左側の丘を登ると小半時間で池を前にしたその四合院作りの先祖の家へつきます。書きながら、その池でカラス貝を捕った記憶が浮かびます。李先生の祖父は彼の有名な忠寮の李家の流れをくむ一人で農業に従事しました。祖母が99歳で亡くなったときには六代満堂で、皆から羨ましがられたとか。李先生のお父さんには三人兄弟の長男で、次男と結婚したのが家母の従姉妹だったから、私たちは李先生とは遠い親戚にあたります。戦後のある日、淡水の町の息子を訪ねての帰り道、公共墓地の横でシナ兵の車に突き飛ばされて、李先生のお父さんは、その場で即死しました。

李先生は五人兄弟の長男でただ一人医者になり、台北市の太平町の医者、余先生の娘と結婚して一男三女をもうけました。その余先生の息子が余宗光先生で台湾大学病院の産婦人科医師、不思議な縁で私の長女のお産の時に「特別指定医師」として、お願いした先生でした。産婆さんの時代が産婦人科の先生へと移り変わる時代でしたから。

六十年代初期、李先生は慢性肝炎との噂さが町に流れ、皮膚の色黒いのはゴルフによる日焼けだと言う人もあったが、あのときから、李先生は毎日昼休みは三時間きっちり取り、戸に鍵を掛けて患者の侵入を防いでいました。その後、アメリカに来た娘を頼って渡米してロスLos Angelsに在住したと前日、南米はブラジルに住む私の末の姉さんと電話して知った次第です。あの頃、ブロッグの写真にあった淡水中学校長の陳泗智先生もロスにいて、さぞ皆で同卿会を楽しんだと思われます。同じ頃、周明徳さんも米国でしたが、首都ワシントンDCで東西両岸で三千マイルも離れていました。

ある時、帰国中の飛行機の上で偶然知りあった人に、淡水の李先生を知っているかと訊かれました。その人の妹が李先生の一人息子の結婚相手と知り狭い世の中だと感じたが、残念にも李先生の一人息子は父よりも先に亡くなったと知らされました。校長先生も亡くなった、余宗光先生も逝った、李先生も多分今では他界したと思う。誰も宇宙の流れには到底逆らうことが出来ない。何時か来る日は必ず来る。その日まで、毎日を精一杯に楽しく暮らしたいと願うのは私一人だけではない筈でしょう。』


2011年07月17日

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蔡醫師

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淡水で医院を開業していた蔡黄煌医師は晩年写真撮影を趣味として、淡水の千枚田のような農村風景や淡水街のモノクローム写真を残している。

私が2010年に、当時の鎮公所を訪れたときに蔡醫師の写真が数多く掲載された写真集「過鏡千帆看淡水」(淡水藝文中心3週年特展)も貰って帰った。

蔡醫師は終戦直後、陸上交通の途絶した状況でLCさんが花蓮港から淡水に帰るときに施合發の「大観丸」に便乗したが、上陸にあたってアフリカなど外地から帰航したような検疫をしたそうである。

同じく写真撮影を趣味としていたLCさんが蔡醫師の作品を見たのはインターネットを通じてであったという。

蔡醫師は、淡水鎮長から新北市淡水区長となった蔡葉偉氏の御尊父であるが、1994年に医院が火事になったときに亡くなった。


2011年09月04日

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木下静涯画伯故居

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臺北縣淡水藝術舞動街坊・文化古蹟巡禮地圖(2009年版)に掲載されていた13箇所の古蹟に「木下静涯晝家宅邸」が含まれていた。

古蹟をそのまま使ってレストランになっている「紅樓」の傍である。

画伯は淡水河越しに観音山を望む見晴らしの良いところに居を構えていた。

戦前、台湾には画伯と呼ばれる画家が4人居た。
石川欽一郎、桃甫:塩月善吉、古統:郷原藤一郎、それに静涯:木下源重郎である。

石川欽一郎は総督府通訳官を兼ねて台北師範学校の美術教師をしており、塩月桃甫は台北高等学校・台北一中の美術教師、郷原藤一郎は台北一中、台北二中、台北第三高女の図画教師を歴任していたが木下画伯は教壇に立つことなく祭永氏を唯一の内弟子としていた。
終戦後、引揚船で北九州に帰国されて百歳の天寿を全うされたが、2000年頃静涯画伯の収集品であった600点もの日本画が見つかったと報じられていた。

修理を終えて見学できるようになる日を待ち望んでいる。

2011年11月15日

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施乾像

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淡水国小の駐車場入り口に施乾氏の像があったことを別のウェブページで見つけた。

施乾は淡水国民学校の卒業生で、台湾総督府に勤めていたが、萬華地区で貧民生活の惨状を見て救済施設、愛愛寮を建て救済事業に献身した。

京都出身の清水照子と結婚したが、大戦末期の1944年に高血圧で亡くなった。

照子夫人は終戦を迎えて帰国か滞在かで悩んだが、寮と収容者を放置することが出来ず、施設に留まり事業維持にあたった。

現在も創設者、施乾の仁愛と愛護の精神は今日も受け継がれているという。

台湾を訪れた菊池寛が、愛愛寮のことを聞き、施氏の著書を内地で紹介したことから、その功績が認められ宮内省を通じて恩賞を受けている。

施氏のことは淡水国小の90週年記念誌にも紹介されており、知ってはいたがその頭像が校地にあるとは知らなかった。

記念誌には、李登輝、許丙、杜聡明、周炳銘などの各氏とともに紹介されている。


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