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広島に住んで アーカイブ

2012年03月03日

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広島転入(広島に住んで:1)

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我々家族は1947(昭和22)年初、はじめて広島に来た。

しかし、それまでに広島は我が家と無関係であったかと言うとそうではない。

父のすぐ上の姉(私にとって伯母にあたる)が嫁いだ永富納氏が戦前から広島鉄道管理局に勤めており、広島市白島町に住んでいた。

白島というのは広島城を中心として市の中央部にあたる基町の北隣で、広島駅から横川、己斐(現:西広島)に向かう鉄道の高架線が通っていた。
路面電車 白島線の終点から北に約2百メートルほど行くと鉄道のガードがあり、そこを過ぎて少し歩くと東側に真言宗の寺がある。
その近くに住んでいたらしい。
白島も広く、東白島町、白島九軒町、白島中町、白島北町、西白島町などという地名があり、城下町であった頃には武家屋敷がならんでいたと言われている。

そこで被爆し、幼児を亡くして一家は実家のある唐津市に移転した。
しかし、伯父の納氏は定年まで単身で国鉄に勤めていた。

父や本家の伯父が健在だった頃、浜崎の本家で宴会をやったとき、本家の伯父は「鹿家の駅長はまだか?」と冗談を言っていた。
鹿家とは筑肥線浜崎駅東隣の駅名で、福岡県最西端の利用客も少ない田舎駅である。

1947年に来た当時は市内全体が原子砂漠と呼ばれていた焼け野原で、西端の己斐駅(現:西広島)から比治山公園まで見通せた。
建っているのは原爆で焼け残った住友銀行、福屋百貨店、中国新聞社屋など数えるほどしかなかった。

後にコンクリートで再建された広島城も木造の本丸櫓の残骸が残っていた。

1949(昭和24)年に基町の市営住宅に入居するまで比治山本町、西蟹屋町、中島など転々としていたが、その頃は街全体が再構築される時期であった。

広島で小中高を卒業し、自宅から広島大学に通い、就職しても広島造船所に配属されて以来20ヶ月間、名古屋で単身赴任した以外はずっと広島暮らしである。

「淡水から広島までの一千浬」の続編として思い出すままに書いてみることにした。

写真は京橋川と並行する路面電車、比治山沿線の側道である。

(このつまらないブログを読んでくれている方から「つらいことは書くな、楽しかったことを書けばよい」と励まされたことで、項を改めて続けることにしたものである)

2012年03月04日

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たった1年間の管理職勤務(広島に住んで:2)

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1977(昭和52)年8月1日から、一年間だけ管理職を経験したことがある。

広島研究所の第二実験課海洋・構造係長である。

現場(土地、建物、実験装置、計測機器、機材を含む)の係長と、研究室でレポートを書いている主任の職責手当が同額なのが不思議であった。

管理には予算管理や設備管理もあるが、何より大事なのは安全管理である。

しかし、それよりも煩わしかったのは実験場の整理、整頓であった。
所長室で窮屈な時間を持て余した担当次長がいつも見に来ていた。
多い日は、一日に3回も構内巡行バスでやってくる。
そして、実験場に一時的に荷卸しした資材が邪魔だとか、ゴミ箱にゴミが残っているだとか、A4サイズの用紙に2枚も書き残して帰るのである。

安全管理の次に重要なのは設備や資材の管理である。
実験課員、研究室員のほか関連会社、外注先、納品業者などが常時、車で出入りしている。
ちゃんと管理していても、不心得者が居ると社品持ち出しなど簡単にできる。

しかし、何と言っても安全管理には気が抜けなかった。
全所で連続無災害を数千日も続けているとき、指先を擦りむいても完全無災害記録は途切れる。
安全はすべての基本である。

実験課員、研究室員、協力会社など数十人が作業していたが、安全帽や高所作業の安全帯、脚絆などを外したり、気を緩めるわけには行かなかった。

実験用の模型を発注したり、加工外注することも多く、伝票処理も多かった。

労務管理にも多くの時間を費やした。
年次毎の昇給や昇格、それに一時金の考課なども、江波地区に勤務している者が不利になってはいけないので、十数名の係員の勤務実態を把握するだけでなく観音地区の者の様子も知る必要があった。

当時の課長が立派な人物で、係長の経験不足をカバーしてくれたのは有難かった。

時間中には係員と打ち合わせや指導も多く、人が少なくなってから計測記録やレポートをチェックし、自分の研究レポートをまとめたりしていた。

通常、人事は最低2年間は必要とされる。
一年目は、前任者の方式を踏襲し、二年目に自分なりのやり方を見出し、改善を加えて行く。
しかし、私は一年間で研究室の特別専門職(主任)に戻された。

長崎から赴任した新所長が、浚渫船の機種研究統括専任にしてくれたのである。
その頃、6ヶ月毎の浚渫船関連の研究費を一億円あまり確保していたからである。
岩盤浚渫や、公害対策の大量ヘドロ浚渫などに化学研究室や加工技術研究室などの研究者と事業本部に打ち合わせに行ったりしていた。
これは私が造船設計部出身だったので船舶事業本部が研究工事の依頼元になってくれたからであった。

このときは同じ構内なので転勤や引っ越しの必要はなかったが、十年以上後になって名古屋に転勤したことがある。
その時も異例の20ヶ月で広島に復帰している。

2012年03月06日

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浚渫運転支援システムの開発−その2−(広島に住んで:4)

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当時、コンピュータはミニコンピューターの時代を経てマイクロコンピュータが出現していたが、初期のマイクロコンピュータはホビイストには受け入れられ、広がりを見せ始めていたが、まだまだ信頼性は乏しく業務に用いることの出来ることは出来なかった。

一万ドルコンピュータPDP8で普及したミニコンピュータが現場で監視用あるいは制御用に用いられていた頃であった。

12ビットのPDP8に続き、16ビットミニコンピュータPDP11シリーズで販売実績を伸ばしていたDEC社から、LSI化されたミニコンピュータLSI11が商品化されていた。
マイクロ・ミニコンピュータと言うべき製品であった。

リアルタイム・マルチタスク・オペレーティングシステムRSX11、RT11も信頼性の高いものであった。

このLSI11で浚渫運転支援システムを開発したのである。

浚渫ポンプの吸入負圧、吐出圧、流速、スラリ密度などプロセス入力信号や、浚渫ポンプ、カッターモーター、スイングウィンチの回転数や出力、ジャイロによるスイング角度、ラダー深度など関連機器の作動状況などを入力することにした。

当時、GPSはまだ一般に使える状況になく潮位も適切なセンサがなく、これらの扱いをどうしようかと考えたりしたことを思い出した。

オペレーティング・システムがフレキシブル・ディスク・ベースであった。
いまならば、ROMやRAMという方法もあるが、そのまま商品として売りっぱなしに出来るシステムではなかった。

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これがLSI11/23のマイクロプロセッサである。

CRTには断面および平面の浚渫位置と各機器の運転状況をリアルタイム表示する機能があったが、単なる運転監視モニターではなく、機器の負荷など運転状態から適正な運転状況であるかどうかを判断し、画面上に運転ガイダンスをテキスト表示する点がこの運転支援システムのポイントであった。


2012年03月07日

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浚渫運転支援システムの開発−その3−(広島に住んで:5)

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浚渫運転支援装置の本体は筐体にまとめた。

ハードウェア構成はボードモジュールのミニコンピュータ
CPUボード(16ビットマイクロプロセッサ、MMU、高速演算チップなど)
メモリボード(MOSRAM:128KW、ブートROMなど)
インターフェースボード(シリアルポート:4ポート、
      パラレルIOインターフェース、16ビットIO:2ポート、
      セントロニクスインターフェース、
      フレキシブルディスクインターフェース)
AD変換器、マルチプレクサ(12ビット:30チャンネル)
電源部
などをコンパクトな筐体に納め、既存のポンプ船(カッターサクション浚渫船)の運転室に設置出来るように、その頂部に80桁プリンターを設置した。
最下部に電源ユニット、その上にコンピュータボード類、さらにその上に収録したデータを収録するカートリッジテープユニット、一番上にフレキシブルディスクユニットを組み込んだ。
当時、まだコンピュータシステム構成は試行錯誤段階で、今日標準的に用いられているハードディスクや大容量LSIは用意されていなかった。
浚渫船の作動時には揺れや振動があり、岩石が吸入管から吸い込んだときには衝撃も発生する。
このため、フレキシブルディスクベースのオペレーティングシステムには多少懸念もあったが実稼働運転期間中、正常に作動すれば良い試作システムということで、これを採用した。
DEC社のリアルタイムオペレーティングシステムには、マルチユーザー用のRSX11とシングルユーザー用のRT11があったが、オーバーヘッドの比較的少ないRT11を採用した。

浚渫運転の状態監視を含む支援システムのアプリケーションソフトウェアはFORTRANでコーディングを行った。
ただ、カッターやポンプの動力や掘削しているポイント情報などリアルタイムのデータ収録ルーチンはFORTRAN言語では記述できず、そのサブルーチンのみ数ステップのアセンブリ言語でコーディングした。

プログラマとしてはある程度経験していたつもりであったが、リアルタイムシステムを構築するのは初めての良い経験であった。

その後、C言語、BASIC、Javaなどを業務で使うようになった。


2012年03月08日

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浚渫運転支援システムの開発−その4−(広島に住んで:6)

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浚渫運転支援システム(MIDAS-C)を実稼働工事で評価する機会が与えられた。

北海道、苫小牧東港の建設工事である。
供試船は五洋建設(株)のポンプ浚渫船「駿河」である。
現地に曳航する前に別府湾に在泊する同船の状況を確認し、運転室の寸法を精査し、特設する機器の配置を船主殿の責任者と決めた。

システムに必要な計測機器の取り付け準備も必要であった。

1982(昭和57)年7月15日に現地に到着、機材の積み込みが開始された。
翌日から4日間で機器を設置して検出端なども結線を行い、20日に試験内容の説明、打ち合わせを済ませ、本船は実稼働運転を開始した。

21日〜24日の間に必要なデータ収録、位置確認など準備を行い25日、26日にシステムの総合調整を実施した。
このとき超音波による船位測定装置が不調で2日間立会試験が延期された。
運転室前面にCRTディスプレイを設置し29、30の両日、運転支援システムによる運転が実施された。

その後、台風の接近で工事を一時中止したが、8月8、9日の両日は船主側の役員が視察に来た。三菱側からは横田技師長が対応に出向いた。

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この写真は運転支援装置で運転試験中のスナップである。

画面中央に見えるのは本社の開発部から立会に来てくれた加藤氏である。

現地における実稼働試験のあと、共同でカッタードレッジャ自動化プロジェクトを行っていた五洋建設側から、この装置を購入したいと申し入れがあった。

試験装置のため、フレキシブルディスクベースであったため、この申し入れは辞退せざるを得なかったが、システムの開発としてそれなりの評価を得たものと考えている。

2012年03月09日

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広島研究所・制御研究室に転属(広島に住んで:7)

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(半潜水式海洋構造物:イメージ)

1983(昭和53)年1月に、広島研究所内の制御研究室に転属になった。

この研究室は同年、電算技術研究室と制御研究室を統合して編成されていた。
室長は制御系の七字室長で、ほかに制御系の主務が、浜中、都丸、松永と居り、電算系の主務は宮崎、桜木の両氏に私が加わった。
電算系の筆頭主務であった橋本氏には「君が来るので追い出された。」と言われたのを憶えている。
主任以下のメンバーは制御系、電算系がほぼ同数であった。
電算系では他に丹波主務と島田主任が菱船に出向中であった。

海洋開発研究室は、海洋構造物・土質研究室と改称され、構造屋と土木屋の色彩が強くなったので江波地区から観音地区に移動になったものと思っている。

私に制御研に行けと内示した後、その室長が「制御理論を知っているか?」と訊いた。
内示と質問の順番が逆だろうと思ったが「知りません。」と答えた。
しかし、制御研主務としては休日に行われていた協力会社の社員教育で制御理論の講座を担当することになり、その程度は勉強させて貰った。

その頃、広島で建造したアメリカに輸出した半潜水式海洋構造物(セミサブリグ)が事故で全損となり、多くの関係者が亡くなった。

この事故で訴訟を受けた船主はメーカーであった三菱を裁判に巻き込んだ。

「プロダクトライアビリティ」という概念を初めて知った。

例えば、支払い能力のないものが保険にも加入して居らず事故を起こしたとする。
事故を起こした当事者は支払い能力がないので弁償能力もない。
それでは被害者が泣き寝入りになる。
それで資力のある自動車メーカーを徹底的に追求し、設計・製造段階で何らかの瑕疵が見つかれば「製造社の責任」として罰金と被害者への補償を要求するという概念である。

以前に行われた商談から設計、建造段階に提出された図面や計算書、それに打ち合わせの議事録などが精査され、特別プロジェクトが編成された。

実際に搭載したバラスト監視制御盤と同じものがメーカーに発注され、作動中の制御板に大量の海水をぶっかけても制御弁などが危険側に作動しないという実験まで行った。

私は半潜水式海洋構造物の浮沈や傾斜を制御するバラスト系のシミュレーションプログラムを作成し、考えられ得る場合を想定して、秒時経過に伴う海洋構造物がどのように傾斜し転覆に至かをグラフィックディスプレイ上で再現させた。

後日、米国で始まった裁判で、当方の正当性と周到な準備を判断した原告側は訴訟を取り下げたと聞いた。

当方のシミュレーションではバラストタンクの容量のみでなく形状まで考慮し、配管系も出来るだけ実機にそったモデルで行ったが、原告側はパーソナルコンピュータなどで多用されている表計算プログラムを用いていたと聞いた。


2012年03月10日

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人事交流(広島に住んで:8)

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入社して7年半、造船設計部に勤務したあと、12年あまり構造強度の研究に従事し、
10年あまり制御研究およびシステム技術の開発に従事してきた。

人事異動と職場移転について振り返って見る。

通常に業務を遂行している場合、人事異動は本人にとって好ましいものではない。
新しい職場に移り、上司や同僚もどんな人物か判らず、そんな環境で新しい業務に習熟して行く必要があるからである。
しかし、経験の幅を広げる意味と、本人の適性にマッチした職場や業務を捜す意味で人事交流は行われる。

技術部門の場合、昨今非常に細分化されているので、土木建設分野から電気部門に移転したり、機械科専攻の者が化学分析に移ったりすることはない。
造船技術者の場合、社内に複数の造船所があれば設計部門相互、あるいは工作部門相互の人事交流や、造船技術者の幅を広げ、あるいは建造工程近代化のために設計から現場などへの人事もあるかもしれない。

しかし、私が就職した頃、コンピュータはやっと開発試行段階から業務に使われ始めていた時期であり、専門教程に関連する講座はなく、参考に出来る書籍も限られていた。
企業がオープンプログラマ制を取っていたことでアプリケーションプログラムを書いては居たが、関連する情報が少なく常時アンテナを張り巡らせる努力が必要であった。

その点、専門職制である制御研究室には学会、シンポジウムの開催案内やコンピュータ部門の雑誌など様々な情報に接することが出来た。

それともう一つ、人との接触や交流があり、本社や長崎研究所の専門家と会議などで同席する機会もあった。
やはり専門職制というのは違うと思った。

人事に関することについて・・・。

新卒で入社して以来、定年までその職場で過ごす人もいれば、頻繁に転勤する人も居るが、電子計算研究室(制御研究室)に3回も転入し、3回転出した人が居る。Mさんである。

私より年次で一年上のMさんは、広島研究所に計装研究課電子計算係が出来るときに長崎研究所から着任し10年余り勤務した後、化学プラントセンターへ転勤した。
2年後電子計算研究室主任として復帰したが、広島に居ること一年あまりで転出し、3年後に制御研究室主務として帰任し、2年で本社へ転出した。
こんな例は珍しい。
技術的にも優れた人物で、後輩の面倒見の良い実に良い人であった。

後年になって、私は名古屋にある電子制御技術研修所に転勤したのであるが、おそらく私の名を挙げたのはMさんであったと思っている。
そのときMさんは研修所の筆頭次長であった。

制御研究室に移ってからも海洋構造物関連のシステム制御の研究を行い、広島大学の為広教授に委員長をお願いし、日本造船研究協会の「半潜水式海洋構造物の操作支援装置の開発研究」特別委員会(SRD−14部会:1984〜1985年度)に従事した。

2012年03月11日

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システム技術部発足(広島に住んで:9)

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制御技術というのは重要であるが企業として活動して行く上で主導権が取りにくい。
それで、プラントや工場ごと一括受注することを狙ってシステム技術部という発想が出たものらしい。

1985(昭和60)年2月に長崎、神戸、広島など各研究所の制御関係の研究室を切り離し、それらをシステム技術部として新編したのである。

システム技術部の中枢は神戸造船所の3号館に設置した。
システム技術第1研究室を長崎に、同第2研究室を高砂に、同第3研究室を広島に、同第4研究室を名古屋(大江地区)に置き、名古屋市中村区岩塚にメカトロニクス開発センターを設けた。

この時システム技術開発室としないで研究室としたのはそれぞれ研究所に分駐していたからであろう。

私はシステム技術第3研究室所属となったが、引き続き海洋構造物や浚渫船のシステム開発に従事していた。
やはり、ハードウェアがあっての上でソフトウェアであると思っている。

そのとき開発に携わったのは全没型浚渫ロボットの歩行制御システムである。

そのプロジェクトは国内某所の維持浚渫に関わるものであった。
稼働海面は、常時大量の流れがあり、そのため海底砂が移動して海底に起伏が生じる港湾であった。
その港湾は大規模な施設のための専用港湾で外洋に面してはいるが、それほど大きな港湾ではなく、在来のポンプ浚渫船ではスイングアンカーを打つには狭すぎ、水深も大きくないので着底するおそれもあった。
しかし、港湾としての機能は果たさなければならないという特殊な条件であった。

それで、浚渫船を小型にまとめて海底を歩行させ、陸上の操作室から遠隔操作するアイデアが生まれた。
搭載機器を水密区画に納め、排砂管に添わせた光ファイバーでロボットの姿勢や機器の運転状況をモニターし、在来のポンプ船の運転室とほぼ同じ操作で浚渫できるシステムである。
しかし、運転と同時に歩行を手動で行うことは容易でないと考えて歩行は自動で行わせる方式とした。

しかし、海底の状況を把握することは難しく、凹みがあるかもしれず、岩塊があるかもしれない。
それでロボット本体に前後左右の僅かな傾斜でも検出できる検出計を常時検出するようにし、脚昇降の制御はストローク制御と荷重制御を組み合わせ、歩行時に水平を維持することにした。
本体が僅かでも傾いていると、本体にピン結合されたラダーをスイングする際、浚渫面を水平に保持出来ないためである。

問題は少なくなかった。
潮位をどのように取り込むかも重要である。
浚渫工事は基準水面下何メートルと規定される。しかし、潮位は常に変動しており、各港湾毎に潮汐表はあるが、気圧や高潮の影響で変動するので、浚渫工事は最寄りの潮位表を参照しながら進められる。
また、港内におけるロボットの正確な位置検知も潮位に劣らず重要である。
浚渫計画線はクリアし、そのほかの余堀を局限する必要からである。

前進浚渫も後進浚渫も、直線歩行も方向転換も自動歩行させねばならなかったが、特別な方向転換機構を考案し、特許申請した。

これら、ロボット本体からリアルタイムで検出するデータは、浚渫ポンプ動力、カッターモーター動力、スイングモータ回転数、同動力、中間深度、喫水、ロボット左右傾斜、同前後傾斜、浚渫吸入負圧、吐出圧、管内流速、スラリ密度、船位データ、ラダー深度、スイング角度、堀跡データ(エコーサウンダ)など多数になった。

また、同時に陸上の操作盤からポンプやカッターの回転、スイング操作や弁の開度調整など浚渫操作をロボットに伝送し、それにくわえて自動歩行制御信号も伝送する必要がある。

ロボット本体に装備された油圧シリンダは20本以上になった。

陸上の運転室と浚渫ロボットとを光多重伝送装置によりLAN(ローカルエリアネットワーク)を構築し、遠隔監視盤による手動浚渫運転と自動歩行を実現させ、システム全体の状態監視機能も具備させることにした。

工場で陸上歩行試験、海中歩行試験を完了し、「ふたば」と命名されて引渡された。

現地での運転も順調に進んだ様子で、三菱広島が造船事業から撤退したあと、神戸造船所で後継機が建造され1993(平成5)年に引き渡された。

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この「ふたば2号」が建造されたことは最近知ったのであるが、写真を見るとラダーの中間にヒンジが設けられた以外は殆ど「ふたば」そのものの再現のようである。

戦後も世界各地で稼働海面の特殊事情や特別な機能をもつ作業船が数多く建造されたが、この浚渫ロボットの開発に携わることが出来たのは幸せであったと思っている。

2012年03月12日

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初めての単身赴任(広島に住んで:10)

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1990(平成2)年6月に名古屋の電子・制御技術研修所に転勤した。

電子・制御技術研修所は本社技術管理部に属していたが、システム技術部と関連が強く、名古屋市中村区岩塚の同じ構内にはシステム技術部のメカトロニクス開発センターがあった。

総合メーカーであったが、技術者は造船系や機械系が多く、電気/電子系は日立や東芝など電機メーカーほど多くなかった。
同じグループの三菱電機とはエアコンなどの製品で競合もしていた。
そこで、社内の技術者を再教育して電子/制御に強い技術者を育成しようとしていたのである。

初めて単身赴任することになった。

宿舎は岩塚町小池の第十菱風菱であった。
研修所から歩いて数百メートルであり、パーティなどを開催できるホールもあった(岩塚荘)。
単身赴任の所長や次長のための施設で、朝夕の賄いには給仕サービスもあり、職場から帰ると煮物や椀を温めてくれた。
クリーニングも業者が集配してくれたし、部屋に電話もあった。

研修所の講座はハードウェア、ソフトウェア、システム開発など短いものは3、4日程度のものもあったが教育の中心は3ヶ月間掛けて修了する中級電子技術コースであった。
電子工学の基礎、ディジタル回路、アナログ回路、シーケンス制御、自動制御、センサ、モータ、実装と信頼性、マイコンプログラミング、16ビットマイコン、VAX11、ソフトウェア設計、高級言語とOS、C言語、マイコンインターフェース、制御システム開発手順、デバッグツール、応用システム開発と多岐にわたるので予備講座も用意されていた。

専任講師は特別専門職2、3級のベテランである。

受講生の楽しみは大須のパーツ屋街に買い物に行くことだったかもしれない。

しかし、妻子のある年代でついて行けずに悩む者もいた。
寮は研修所に近いので、真夜中寝ているとノックをするものがいる。
作業服姿の研修生である。
「もう、ダメです。ついて行けません。」という。
こんなとき励ましたらいけないと教育課などから言われていた。
「まあ、座れ。」、「まあ、飲め。」、「今日は遅いから帰って休め。」
という対応をしたこともある。

この「中級」の他にプラント制御専門(10コース)、システム制御共通(9コース)、メカトロ制御(6コース)、技術計算(4コース)、製造(2コース)、それに高砂で技能系の中級、上級の講座があった。

1984年4月に岩塚地区で開講したが、10年後の1994(平成6)年に戦前、零式戦闘機など航空機を作っていた大幸工場跡地の一角に技術研修所が設立された。

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更地になった工場跡地にはドーム球場が建設されたことはご承知の通りである。

私は1992(平成4)年にシステム技術部主査として広島に帰任したあと非常勤講師として何度か出張したことがある。

私が単身赴任していた期間は20ヶ月ではあったが、赴任する1年前に娘は高松の香川大学に入学し、高松駅近くに1人住まいを始めていた。

従って、何時も賑やかだった我が家は急に寂しくなった。
家内は以前から栄養士の免状があり、料理教室で講師をしていたこともあったが、数年前に一念発起して調理師専修学校に入学したが、見込まれたのか夜間部で受講しながら昼間部で授業するようになり、その頃はクラス担任をしていた。

娘が高松に行き、私が名古屋に行ったので、広島の我が家は父と家内だけになった。

1977(昭和52)年4月19日に母が亡くなったので、基町の市営アパートから安佐南区川内(当時:佐東町川内)に転居し、父と妹と一緒に住んでいたのであるが、妹は11月8日に升光家に嫁いでいた。
升光洋司氏は立派な人物である。

広島と名古屋の間は新幹線に乗れば2時間か2時間半で着くので、時々様子を見に来てくれた。

お陰で熱田神宮や東山公園など名古屋市内だけでなく、絞り染めの有松、岐阜、明治村、伊勢志摩などに出掛けた。

1992(平成4)年2月に広島に帰任してからは、しばしば瀬戸大橋を渡って高松に行った。

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1988(昭和63)年9月に宮島対岸の安芸グランドホテルで、第22回淡水会で幹事を務めた父は、翌年は福岡、1990(平成2)年には淡水、1991年には唐津1992年には奈良と毎年、淡水会に出ることを楽しみにしていた。
私は広島で開催された第22回と、翌年福岡で開催された第23回には同席した。

2012年03月13日

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システム技術部からエレクトロニクス事業部へ(広島に住んで:11)

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1992(平成4)年2月に、システム技術部(第三研究室配置)となって広島に帰任した後、一時的に某製鉄所向け荷役システムの機能改善などの業務を担当していた。

検出や制御を含むシステムは重要であるが、荷役システム本体の機構や強度などの設計がうまく機能できない場合、ソフトでカバーするには限界がある。

京葉地区の製鉄所に出向いたり、制御システムを担当するメーカーを訪ねたり、赤外線センサーを開発する航空機・誘導システムの事業所に行ったりして対策に、文字通り東奔西走していた。

帰宅しても顔色の良くないのを気にしてくれた家内が因島にドライブに連れて行ったり、北九州の宿舎まで来てくれたりして励ましてくれた。

同年10月に、システム技術部はエレクトロニクス事業部に改編されていた。
本当に、システム技術関連個別案件で採算ベースで事業展開せよと言うのであろう。

その頃、本社技術管理部でも、広島研究所でも大学教員など、私の身の振り方について親身に相談に乗ったり、提案してくれたりした。

1994(平成6)年に設立される広島市立大学の教員を募集していた時期でもあり、技術管理部長の推薦状も発行してくれた。

広島研究所の柳所長がY女子大学の事務局と相談してくれたので、取り敢えず一年間、非常勤講師を勤めることになった。

当時、同大学の文学部に児童教育学科があり、そこには情報教育コースがあった。
事務局長は、将来的には情報関連の学部を作る予定であるとも言っていた。

大学の教員になるためには学位があったほうが望ましいと言うことで、若い頃勤めて居た造船設計部から九州大学工学部に行ったF教授に相談し、学位論文を書き始めた。

週に2回程度、Y大学で授業を行い、その他の時間は論文執筆に充てることが出来た。
有難いことであった。

学生は真面目で、礼儀もわきまえていた。
通勤は自宅から自転車で通える距離であったが、大学は山手にあり、正門前に坂があったので自転車で通うことはなかった。


2012年03月14日

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大学への移籍とシルバーレストラン開店(広島に住んで:12)

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1994(平成6)年の4月から一年間、Y女子大学の非常勤講師を務め、翌年の春に同大学に移籍した。

新任と同時に児童教育学科1年3組の担任となった。
1組、2組は卒業時に小学校教員免状を取得できる児童教育コースであるが、3組は免状を取得できない情報教育コースであった。

その代わりにワードプロセッサソフトウェアや表計算ソフトを扱う、いわゆる情報リテラシーを越えた情報科学を教育することが出来た。

3、4年生を対象としたゼミナールも「情報科学ゼミ」とした。
コンピュータ・インターフェースや数値計算法、アルゴリズムなどもカリキュラムに組み込んだ。

情報教育コースの卒業生は卒業し就職してもよく頑張っていた。
客先に1人で出向き、簡単なトラブルなら対処できていたようである。

「システム・エンジニアと言っても、君はソフトウェア担当ではないのか?」と訊くと「小さな案件に、ハードウェア担当と二人がかりで対応するわけに行きませんから。」と笑っていた。

児童教育科だけに各分野の立派な教授陣が揃っていたが皆、新米の私も仲間扱いして貰えたことは有難かった。

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私が大学に移籍した春、岩国にある家内の実家に建てていたシルバーレストラン「紙風船」が竣工した。

栄養士であり、調理師専修学校の教師を経験した家内が「お年寄りや病弱な人のための憩いの場になるレストランを創る」と言って重村建設に建設を依頼していたものである。

ホールはテーブルだけでなく畳に座れるスペースも考慮していた。
厨房は小さな料理教室が出来る程度に設備も整えた。

竣工して、お披露目の試食会も無事に終わり、5月に営業を開始することにした。

しかし、家内はその頃体調を崩し、広島から毎日通うことが出来なかったので、システムエンジニアとして就職していた娘が退職し、調理師さんと運営を続けることにした。

レストランまで来られないお年寄りには仕出し弁当を届けた。

岩国のローカル紙が取り上げてくれて、山口市にある民放のスタジオに行ったこともある。

2012年03月15日

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児童教育学科・情報教育コース(広島に住んで:13)

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大学には学生用コンピュータ端末を60台程度揃えた情報教室が6号館に2教室、7号館に3教室、2号館や9号館には階段教室があるだけでなく、ゼミで複数のコンピュータを接続したり、インターフェースの実習が出来る教室もあり、設備は充実していた。

移籍後まもなくインターネットの接続も行われた。

児童教育学科のほか日本文学科や英語・英米文学科、それに短期大学の秘書科や生活科学科も含めて、コンピュータ・リテラシーなども授業も行われていたが、情報教育の設備は充実していた。

図書館にもマルチメディア室も整備された。

児童教育学科、情報教育コースの学生は優秀であった。
2年生になると、当時の通産省が実施していた情報処理技術者試験の2種に合格する者もいた。

コンピュータの基本構成や作動原理まで授業を行い、研究費で25ピンの端子切替の出来るテスト用接続ケーブルやテスターなども準備して演習に用いた。

情報教育コースの第1期生が4年生になるときに赴任したのであるが、そのとき入学したクラスの担任をしたので、これが第4期にあたると思う。

ゼミは3年生から配属されるのであるが、第3期、第4期から地元の就職先の人事担当から「男子より優秀」と言われたときは嬉しかった。


児童教育学科・情報教育コースの教育はとてもやり甲斐があったが、長く続けることが出来なくなった。
文学部にくわえて新学部が発足することになったからである。
その学部は情報、外国語、経営を3本柱に計画された。

新学部のカリキュラムなどの準備作業も忙しかったが充実した作業であった。

その学部が発足し、第1期生が3年生になるときに退職することを決意した。
その大学で満十年勤務し、永年勤続表彰まで貰っていたし、3年生になってゼミを引き受けると卒業まで(あるいは卒業後まで)責任をもって指導せねばならないが、先のことはわからないと思ったのである。

その新学部も発足して、今年で十年経過し今春、祝賀会の招きを受けた。


2012年03月16日

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梶川病院(広島に住んで:14)

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文部科学省に提出する資料を作成するために、カリキュラムや授業科目、そのシラバスや必要な研究室など設備の計画も担当したが、とても充実した仕事であった。

そして、第一期生が入ってきて、新年度が始まった。

開講年に新学科(即、新学部)の教授会メンバーは5人であった。
そのほかの教授、助教授は当面、既設の学科に所属しており、2〜3年度で十数名にする計画である。
短大秘書科から長瀬教授が学科長になったほか、英語の松岡教授、情報の千葉教授、法学の水鳥助教授、それに私であった。
児童教育学科から引き続き、情報システム委員と学生部委員を担当した。
学生部委員で年度初めの比較的大きな行事に、新入生を歓迎し大学生活の始動を助勢するオリエンテーションセミナーがある。第一期生入学の時は児童教育学科の2年生がよく協力してくれた。
入学すると学科展が行われる。
オリエンテーションセミナーや学科展は、既設の学科では先輩から後輩に引き継がれるが新学部は学生部委員が駆け回ることもあった。

第一期生が無事に2年生になった初夏の頃、理事長室をノックし、辞意を表明した。
「理由は?」と訊かれて「おかげさまで丸十年勤めることが出来ました。お世話になりました。」と挨拶した。

夏休みが終わり、後期が始まった。
研究室のある6号館から新設された9号館に回廊を渡っていると、傍を通りかかった学生が「先生、大丈夫ですか?」という。「大丈夫。ありがとう」と答えたが、そういえば最近まっすぐ歩くのが少し難しいと思うことがあった。
6号館に戻っても、2回に上がる階段で千葉先生が脇を抱きかかえるようにしてくれる。
その翌週、ちょっと体調が思わしくないので電話で教務に休講を告げた。
その日の昼過ぎ、水鳥助教授が車で迎えに来た。
何処に行くのだろうと思ったら、中区昭和町の梶川病院の外来であった。
後で聞くと脳神経外科で地元では有名な病院であった。

2004(平成16)年10月26日であった。
初診ののち、診察室を出ると様々な検査が行われた。
おとぎ話を聞かせて、直後に「桃太郎は何処に行きましたか?」とか訊かれるのである。いま聞いた話をどこまで憶えているのかを問う質問にしてはもっと別の話の方が良いのではなかろうか?
これでは、話を聞かなくても常識でわかってしまう。
しかし、即日入院、翌日手術となった。
脳が随分偏っていた。
病名は慢性硬膜下血腫、手術は頭骨にコイン程度の孔を開け、液を出して正常に戻すのだそうだ。

私が休暇を取ったということを聞いて、千葉先生が病院に電話し、水鳥先生に移送を頼み、病院で水鳥先生はずっと付いていてくれた。
Jは一緒に来てくれた。
そして妹達に連絡してくれたので、恭子も由起もすぐ来てくれた。

娘は、もうずっと車椅子生活になると思ったと言っていた。
しかし、有難いことに11月2日に退院することが出来た。
恭子がおでんを煮て持ってきて呉れた。

11月3日は国民の休日(文化の日)であった。
午後、理髪店に行って、帰りに依頼していたスーツを受け取り、長崎屋でホタルイカや銘酒幻などを買って帰り、翌日には大学に退院の挨拶に行き、大学祭の「教職員の作品展」への出品を学生課に届けた。

入院している間、学科長の長瀬先生や学生部からも見舞いに来てくれて恐縮した。

特に千葉先生と水鳥先生になお世話になった。
命の恩人である。


2012年03月17日

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二胡とドイツ語のレッスン(広島に住んで:15)

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2005(平成17)年1月から2月にかけて3週間、Jは語学研修のためにアイルランドのコークに出掛けた。
期間は短かったけれど良い経験になったと思う。

その間に少し家の模様替えをした。
今まで何度か小さな工事を依頼したことのある住宅工事会社に2階の部屋の模様替えを頼んで書斎にしたのである。

退職することになり、時間が出来るので何か楽器を演奏出来れば良いと1月末に二胡音楽院を訪ねてみた。

今まで演奏会を聞いたことがあったわけでもないが、2004年の1月に雲仙から長崎、佐世保に行ったときに、佐世保駅前の楽器店で曽朴の「二胡/初歩の初歩入門」という冊子を買ったことがある。

未経験者で、4月から習いたいと言うと「今月からやりましょう」と言う。
楽器は貸与出来るから買わずに来いと言う。

それで1月25日から通い始めた。
月に4回のコースであった。
そのレッスン内容については色々あるがここでは述べない。

2005(平成17)年3月19日の教授会のあと同じ会議室で、年度末で退職する送別会となり離任の挨拶をした。

市内にも何ヶ所かカルチャー教室があるが、語学と言えば英会話、ハングル、それに中国語などでドイツ語講座は久しくなかった。
折良く、10月から中国新聞文化センター(興銀ビル)でドイツ語の入門講座が始まることになった。

月に2回で、講師は広島大学の大学院生であった。
40年以上前、教養部で第2外語として履修したが、もうすっかり忘れていた。

二胡とドイツ語とのつきあいはこの頃始めたものである。

2012年03月18日

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飛行船と独書原典(広島に住んで:16)

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趣味として飛行船(特に硬式飛行船)の研究をしている。

2004年、当時の東京海洋大学(旧東京商船大学)で開催された造船関係学会に出席したときに、当時ワールド・シップ・ソサエティの日本代表を務められていた府川氏に招かれて泊めて貰ったことがある。

そのとき、府川氏から戴いた一枚の絵はがきが硬式飛行船研究の奇縁である。
米海軍の飛行船母艦「パトカ」が飛行船「ZR3:ロサンゼルス」を繋留している写真であった。

それから硬式飛行船に興味を持ち、調べ始めた。
合衆国のグッドイヤー・ツェッペリンからフリードリッヒスハーフェンに派遣されていたハロルド・ディックの「グラーフ・ツェッペリンとヒンデンブルク」(英文)は非常に参考になったが、さらに内部の詳細や開発の経緯が識りたくなり古書の物色を始めた。

2006年の秋に、ツェッペリンのタバコカードアルバムを紹介された。
それまでに持っていた独文文献はバーバラ・ヴァイベル女史の「ツェッペリンの乗客になって」という大判で鮮明な写真の掲載されたハードカバーのみで、東京八重洲の書店で、在庫処分として半額で売られていたのを見つけたものであった。

ヴァイベル女史は2010年に素晴らしい写真集「LZ129:ヒンデンブルク」をエアフルトの出版社から刊行した。

ちょうど、カルチャーセンターでドイツ語講座が始まった頃で、それから独書原典とのつきあい(格闘?)が始まった。

そのころ飛行船に関する邦書がなかったわけではないが、その内容たるやお粗末なものが殆どであり、これは原典に当たるより方法はないと考えたのである。

2002年に設立された日本飛行船(株)が2005年1月に準硬式飛行船「ツェッペリンNT」を日本まで海上輸送した頃で、広島にも飛来していた。


2012年03月19日

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ツェッペリンNTとの遭遇(広島に住んで:17)

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2006(平成18)年6月10日、初めて準硬式飛行船「ツェッペリンNT」が広島に飛来した。

この「ツェッペリンNT7型」はZLT社 ( Zeppelin Luftschifftechnik GmbH Co KG )の「D−LZZR:ボーデンゼー」を購入したもので、2004年3月2日に購入契約に調印、6月12日にフリードリッヒスハーフェンで引渡式が挙行された。

6月13日からヨーロッパを飛翔し、7月にはシベリアを航行して8月下旬に札幌(石狩新港)に到着する予定であった。

しかし、同日ドイツ、スイス、フランス、ルクセンブルク、イギリス、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、チェコスロバキア、モナコ公国、イタリアを巡る欧州フライトは実施したものの、8月25日にロシア横断を断念し、12月9日にイタリアのジョイアタウロ港でオランダの特殊貨物船「ドックエクスプレス10」に載せられて出港し、スエズ運河、紅海、アラビア海、インド洋(12月23日にはスマトラ沖地震に遭遇)、マラッカ海峡、南シナ海、ルソン海峡、太平を経て、2005年1月7日に神戸のポートアイランド港で陸揚げされた。

1月14日に神戸から名古屋の万博会場に移動し、19日に基地となる桶川に到着し、同年2月に国内運航を始めた。

広島に飛来したときは広告宣伝飛行を行っていた時期で、そのときは自動車メーカーの「BMW」の大きな画が掲げられていた。

広島の出島地区にはコンテナヤードの脇に更地の埋立地があり、ここを繋留点にして何度も飛来した。
しかし、この「ツェッペリンNT」は従来百人単位で必要とされていた地上支援員が2、3人で済むので運航コストの低いことがキーポイントであったが、関東や関西からマストカーや地上クルーや、大量のヘリウムボンベを積んだフリートが走り回るような運航形態で採算の見通しをどう考えているのか疑問を感じていた。
しかも、乗客定員12名であったのに、遊覧飛行でも座席を2、3外して運航していた。乗客定員が数百名のジェットライナーならともかく、僅か12席しかない乗客用座席を一つ外しても売り上げが1割近く減少することは自明である。

その後の経過は周知のとおりであるが、下記のように実にあっけない幕切れであった。

ちなみに、フリードリッヒスハーフェンの基地をベースに運航されている同型船の運航は順調に続いており、昨年5月には合衆国のグッドイヤーから3隻の「ツェッペリンNT−101」型の新造契約を受けた。
第一船は2014年はじめに竣工の予定である。

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飛行船運航事業へ投資を行ってきた日本郵船は、2007年4月2日に(株)日本飛行船の保有株式全株を朽木汽船に売却し、飛行船事業から撤退した。

一方、国土交通省東京航空局は2007(平成19)年5月31日に(株)日本飛行船へ航空運送事業を認可し、6月には施設検査に合格し、遊覧飛行が可能となった。

11月23日、就航記念式典が行われたが、第1便、第2便は強風でキャンセルされ、初便はナイトフライトになった。

その後、関東や関西で2〜3時間の飛行を実施していたが2010(平成22)年5月31日に(株)日本飛行船は自己破産し、「ツェッペリンNT」は直ちに解体された。


2013年03月02日

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自転車で唐津に向かった

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1959(昭和34)年に大学のに入学試験に合格したときのことである。

このときに唐津の従兄弟も合格した。偶然に受験番号が同じ45番であった。
従兄弟は応用化学科である。そして、高校時代から一緒に学んだ親友も同じ応用化学に入学することが出来た。

その春、自転車で広島から唐津に行くことを思い立った。
両親など家族に見送られて、ごく普通の自転車に大荷物を括りつけて、鉱石ラジオをイヤホンで聴きながら出掛けた。

国道2号線を宮島線沿線に沿って行くと、大野浦の辺りで護衛艦が単艦で西航しているを見つけた。
一時間くらい併走してであろうか?

ところが大竹で県境を越えて山口県に入ると舗装がなくなり、砂利道となった。

戦後、国土の復興が急がれてはいたが、当時の土木事業はまだ人海戦術に近い状態で、全国一斉に出来るわけもない。

1946(昭和21)年に第1回国民体育大会が開催され、天皇陛下がご臨席になるので石川県の主要道路が整備されたのであろう。
翌年から石川県、福岡県、東京都、愛知県と開催され、1951(昭和26)年に第6回国民体育大会が観音の総合グランドをメイン会場に開催された。
この大会からマスゲームが始まり、都道府県旗が掲揚されることになった。
ともかく、このときのために大竹まで広島県の国道二号線は舗装されていたのであるが、山口県はこれよりずっと遅れていた。
山口県で国体が開催されたのは、私が就職した1963(昭和38)年であった。

この頃は国体の開催式に出席された陛下は県内の山間部で行われる植樹祭に出席されるようになっていたと思う。

ともかく、悪路の国道二号線を国鉄の線路に沿って南岩国、藤生、通津、由宇、神代、大畠、柳井港、柳井に行き、柳井からは山陽本線が内陸部を通るため、国道に沿って平生、室積、光を経て下松まで辿り着いた。

下松には淡水時代に家族として暮らしていたマキ子さんが嫁いでいた。
マキ子さんが結婚したF氏は、スポーツマンで立派な人物であった。
何度も、ここに遊びに行き、海釣りなどに連れて行って貰った。

その社宅のアパートに転がり込んで2日程滞在し、乗ってきた自転車はそこに置いて汽車賃まで貰って国鉄で唐津に向かった。

光には製鉄所があった。八幡製鉄所の分工場のようなところであるが、戦後の復興時期にはスクラップを精製していたのであろう。

光の沖には小型空母(飛行機を前線に送り届けるための字義通りエアクラフトキャリア)がスクラップのために数隻、浮標繋留されていた。

当時は合衆国からだけでなく、遠く南米からも古い軍艦をスクラップとして曳航していた。

戦後、進駐軍に接収されて荒廃していた記念館「三笠」を復元するとき主砲にはスクラップになった廃艦の主砲を転用する話もあった。
最終的に南米の旧戦艦の主砲を換装したのかどうか知らない。

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