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父のこと アーカイブ

2012年04月24日

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父のこと(1:出生から中學入学まで)

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父のことを少し書いてみようと思う。

父は1912(明治45)年3月24日に本籍地の浜崎で生まれた。

佐賀県東松浦郡浜崎村である。

万葉集にも詠まれている鏡山と玉島川の間の半農半漁の村であった。

日本三大松原の一つ、全長5キロメートルの虹の松原の東にあり、松原の西には龍造寺氏の治める唐津藩の城下町である唐津町があった。
明治維新のとき廃藩置県にともない唐津県となったが、伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県とめまぐるしい変遷ののち佐賀県が長崎県から独立した。
唐津は1889(明治22)年の町村制施行で唐津町となったが、1932(昭和7)年に周辺の村を合併し、唐津市となった。

浜崎村は1922(大正11)年に町となり、1956(昭和31)年に玉島村と合併して浜崎玉島町となり、1966(昭和41)年に浜玉町(はまたまちょう)となり、2005(平成17)年に唐津市に合併された。
本籍地の住所表記は浜玉町(はまたままち)浜崎である。

祖父は廣川慶太郎、祖母は肥前の松浦寅太郎の長女里勢(リセ)であり、長男 浚治、長女 壽賀(スガ)、次女 敏(トシ)がいたので父は次男であった。
平成3年に刊行された浜玉町史(資料編)によれば、藩政期に桝屋という醸造業を営んでいたらしい(廣川利兵衛)が、半右衛門の代に廃業し、理兵衛、半右衛門、喜兵衛のあとを次いだのが慶太郎である。

その春、浜崎から山中に入った七山村の池原に出来た小学校長に赴任するため、4月に父の宮参りを済ませた翌日、一家で移転した。慶太郎38歳、里勢30歳であった。

俳句を嗜んでいた浚治伯父は「児を入れて畚(フゴ)の片荷や 山桜」という句を詠んでいる。

校長兼住み込みの小使いさんのようで、大きくもない校舎を逃げ回る父を祖母が箒を振り上げて追いかけたことがあると、父が笑いながら話してくれたことがある。

その2年後の1914(大正3)年2月に櫻島が大爆発し大隅半島と陸続きになり、第一次大戦が勃発し日本は青島のドイツ軍を攻撃した。

1918(大正7)年、父は池原小学校に入学したが、1923(大正12)年4月に玉島小学校に転校した。
翌年唐津中学校入学を控えて祖父が玉島村の玉島小学校に通わせたのだろうと思っている。

父の下に、妹 田鶴と弟 功が生まれたが二人とも幼くして亡くなった。

1924(大正13)年4月に唐津中学校に入学し、虹の松原を自転車で通学した。


2012年04月28日

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父のこと(2:佐賀師範を卒業して)

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佐賀県立唐津中学校を卒業した1929(昭和4)年の春、佐賀県師範学校の本科に入学し、翌年5月に小学校本科正教員の免許を受け、佐賀県東松浦郡横田尋常小学校の訓導として赴任した。

横田は浜崎に隣接し、鏡山麓の集落で、浜崎から通勤できる距離である。
横田尋常小学校は1935(昭和10)年に浜崎尋常小学校と合併し、9月30日付けで父は必然的に浜崎尋常/高等小学校訓導に補せられた。

私が1946(昭和21)年4月に浜崎小学校に入学したときの担任、宮崎 操先生はこの頃の父の教え子であった。

翌年3月31日付けで東松浦郡湊尋常/高等学校訓導に転勤辞令を受けた。

湊というのは今は唐津市に合併されたが、唐津から豊臣秀吉が朝鮮へ出陣する際に出城を構えた名護屋や、海産物の出店で知られている呼子の方へつながる海岸線に沿った港町で、神集島への渡船場のような辺鄙な村であった。

唐津湾の西岸に沿って10キロメートルほど行くと、湾口に神集島という小さな島がある。
陸から見た島の形は台形で、神功皇后が新羅出兵の際、ここで儀式が行われたという伝説があり、万葉の歌碑もある。
第2種漁港があり、湊港からは10分の距離である。

その手前の集落が湊で、ここから海岸は玄界灘に直面する。
そこには立神岩という奇岩が立っており、この辺り一帯はサーフボード乗りのメッカのようになっている。

そこからさらに先に進むと2、3キロメートル先に波で浸食された七ツ釜があり、観光船で海から入ることが出来る。
海岸線をさらに進むと観光客の多い呼子の漁村がある。
先端まで行くと海中展望塔もある。
この辺りで、スルメイカやサザエを焼いて貰って喰うと美味い。

そこから漁港を越えて西に行くと名護屋城趾のある鎮西町に入る。
「太閤が睨みし海の霞かな。月斗」と刻まれた石碑もあり、周辺には徳川家康、伊達政宗、毛利秀頼、黒田長政、加藤清正らが陣を構えていた陣跡が残されている。

そこからさらに西に行くと玄海町の玄海原子力発電所がある。

当時の湊は田舎の分教場のような小学校であったに違いない。
そこに一年ほど勤務したあと、台北州庁に勤めていた吉森八郎氏を頼って門司港から渡台した。

祖父だけでなく伯父も伯母も教員をしていたのであるが、次男であることから何れは何処かに出なくてはならないと考えていたのであろう。
当時、父は25歳であった。


2013年02月24日

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父はスポーツが好きであった

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父は、書も絵画も上手であった。

そしてスポーツも大好きで得意であった。

私には書も絵もスポーツも、忙しい中教えてくれたがどれも上手くならなかった。
不肖の子である。

バレーボールやバスケットなどは学校を代表して対抗戦に出ていたし、応召してからも銃剣術などの試合に出たと聞いているので平均以上に健康なのかと思っていたら、

20歳の時、徴兵検査で丙種合格になっていたことが判った。
心臓弁膜症であった。

スポーツの観戦も好きであった。
晩年、TVで相撲や野球の中継は、あまり見ていた記憶がないが、中国新聞主催で福山支社前をスタート、八丁堀の本社社屋前をゴールとする中国駅伝はゴール近くの同業者の事務所で観戦していた。

私は水泳はあまり得意でなかったので、市内の川で教えてくれた。
父は勤務があるので、母が呉線沿線の小屋浦海水浴場に何度か連れて行ってくれた。


2013年03月24日

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今日は父の誕生日

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今日は父の誕生日である。

1912(明治45)年の生まれだから、生きていたら101歳になる。

この写真は1973(昭和48)年に責任技術者資格更新にあたって撮影したものである。

父は1998(平成10)年10月20日に亡くなった。
86歳であった。

立派な父であった。

もっと孝行しておけばよかったと思う。


2013年04月23日

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父は投網を楽しみにしていた

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父は投網が好きであった。

週末になると板の間に座って前回漁に行ったときに破れた網を繕っていた。

淡水河のどの辺りに行っていたのだろう?

ハゼのような小魚やエビを持って帰ることもあった。

晩年は瀬戸内海で船釣りに連れて行って貰っていた。

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