2010年03月22日

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貿易港であった淡水

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台湾には数万年前から太平洋・インド洋の広域と同じ仲間のオーストロネシア語族の人達が住んでいた。

大陸から中国系の人が台湾海峡の澎湖諸島に渡来したのは宋の時代で、台湾本島には17世紀頃であったと言われている。

その17世紀にはオランダが台南にゼーランジャ城(安平古城)、プロビンシャ城(赤嵌楼)を築き、東インド会社の拠点にした。
しかし、1662年に鄭成功がオランダ人を駆逐し、高雄から台南の北、新営あたりまでを治めた時期がある。
その後も台湾西部の平地に大陸から渡って来た人達がいたが、明から清に時代は移っても大陸の政府は「化外の地」として放置したような状態であったので、台湾北部の港であった淡水にはスペインやオランダが貿易基地としようとしていた。淡水鎮公所のウェブページには「1634年:淡水に住むスペイン人約二百人」と記されている。
淡水の観光スポットの一つである紅毛城は、スペイン人の建設したサンドミンゴ城の後身である。清の時代には、その紅毛城一帯をイギリスが永久租借したり、フランスの艦隊に攻められ、淡水に上陸されたこともある。

当時、淡水河は大陸との貿易港で大陸からの帆船は、台北中心地の萬華(龍山寺のあたり)が船着き場であったという。当時は「か(舟ヘンに甲)」という船着場を表す地名であり、船荷を収める大きな建物が今も残っているそうである。

1895年の日清戦争講和会議で台湾が日本領となり、1897年には日本郵船が、1899年には大阪商船が淡水と香港を結ぶ航路を開設しており、終戦まで税関があり日本人のパイロットも居た。

その後、基隆港の整備が進み、淡水河は堆積が著しく外貿港としての役割を終えた。
淡水河には大きな中洲が出来、河岸にはマングローブが茂っていた。
現在、中洲はなくなったがマングローブは紅樹林として保護されている。

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