2011年05月29日

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新生学園・光の園(戦後の広島:6)

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この写真は5月24日の本欄に載せた写真と同じ、広島城天守閣跡から西を見たものである(明田弘司:「百二十八枚の広島」、南々社、2009年)。
1969(昭和34)年の撮影とあるので私が大学に入学した年である。

前の写真より画角が広く、鮮明である。

市営住宅も建造されてから年月が経ち、それぞれの庭の樹が繁っている。

本川(太田川)寄りに3棟の市営アパートが建ち、正面には後に何棟か建てられた変形アパートも見える。

その向こう、右手に横川の川土手の石垣が見える。
このあたりには製材所が多かった。
太田川上流から材木を筏に組んでこの川岸まで運び、柱や板材にした。
大都市の復興で木材は需要が多かった。
太田川は正面で分岐して向こうに流れる天満川にアーチ橋、横川橋が掛かっているのが見える。

手前の広島城の堀に沿って左に見えるのが「新生学園」である。
戦災孤児を収容して、ここから市立の小学校に通わせていた。
修学旅行に一緒に行った(列車で別府温泉!)。
この新生学園は、当時陸軍通信隊の見習士官だった人が、市内あちこちで泣いていた赤ん坊を収容するために、旧陸軍暁部隊(陸軍舟艇部隊)の施設を借りて開いた孤児の施設であった。
フィリピンや台湾から引き揚げてきた孤児を収容していたという。
その後、基町に移転したが現在東広島市にある。

この写真の右枠外には「光の園」という孤児施設もあった。
「光の園摂理の家」は医師として被爆者の治療にあたっていたペドロ・アルペ神父の働きかけで別府の光の園理事長を迎え安佐郡祇園町の三菱労務課の建物でスタートして基町に移転してきた。現在、広電バスの車庫のあるあたりである。
ここも高層アパート建設計画で立ち退きを迫られ佐伯郡地御前村(現:廿日市市)に移転している。

この写真はとても懐かしい。
新生学園と3棟の市営アパートの間に横長の屋根が見えるが、銭湯「平和湯」だと思う。それを取り囲んで小さな市場があり、その裏手(写真で右手)に小さな広場があった。
ブランコとシーソーがあったが児童公園という程のものではなかった。
その向こう側にバス道路があり、市場の横で西(川寄り)に曲がり、50メートルほどで南(写真の左)に曲がる角に交番があった。
縮小する前の写真では巡査の住んでいる官舎も見えそうである。

市営アパートの向こうの本川(太田川)は1キロメートル先で相生橋を通るが、写真の対岸左端には本願寺広島別院の屋根が見える。


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