2011年05月28日

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いわゆる「原爆スラム」(戦後の広島:5)

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当時の模様を何駒かの写真で紹介しよう。

私の住んでいた周辺の写真も結構あるが観光地でもないので風景だけや、まして不法建築物のみを撮った写真は殆ど無い。

その写真に写っている子供達や、当時近所に住んでいた人に公開の了解を取ることも難しいので刊行物やウェブに公開されているものから人物の写っていないものを選択した。

上の写真は本川(太田川)の土手、いわゆる原爆スラムの一角である。
背後に広島城が見える。
この写真は映画「ヒロシマ・モナムール」の撮影のために来広したフランスの女優、エマニュエル・リヴァが撮影の合間に撮った写真のなかの一枚である。
来広したのは1958年だからコンクリートで復元された広島城が出来上がった年である。
中央、木立の向こうに並んでいる屋根は木造の市営住宅群である。

我々家族が南鯉城住宅に入居したのは1949年であったから、それから10年近く経過している。

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これは相生橋の東詰から上流側(北)を撮影したものである。

背後に原爆スラムを解消することも含めた再開発計画で建造された高層アパート(1972〜1976年竣工)の最初のブロックが見えているので、上の写真から10年以上経過したしていることが判る。

この土手は遙か上流の三篠橋まで、間を通ることが出来ないくらい密集して不法建築が続いていた。

夏には子供達が上の写真のような通路を通って川に泳ぎ(遊び)に行くくらいでヨソ者は近づき難い一角であった。

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原爆スラムでは何十軒も燃える火事が何度も起きた。
消防車は近づくことが出来ず、狭い迷路を長いホースを何本も継ぎ足して消防士が突進していた。

川から放水すれば良いことは判っているが、広島市が消防艇を建造したのは1979年になってからのことである。

この写真には木造の市営住宅群と低層の市営アパートしか見えず、高層アパートの建設に着工する前なので1960年代であろう。

原爆スラムでは、何度も大火が起きるので被災者たちは「市が火をつけている!」とか「消防の出動を故意に遅らせている!」とか泣き叫んでいた。

私も家族が転居したあと、市営住宅に残っていたとき一部類焼した経験がある。
窓ガラスが熱で割れ、庇が燃えた。
そこで延焼が止まったので、気がついたら何処の箪笥か判らない抽斗が沢山持ち込まれていた。
その夜は大雪で衣類を外に放置できなかったのである。

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