2005年05月10日

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(生い立ちの記:4)川西式4発飛行艇

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幼年期の淡水の思い出は断片的であるが、幾つか目に浮かぶものがある。

その一つが、川西式4発飛行艇である。

全幅40メートルのパラソル翼に発動機を4基並べ、艇体は鮎のように美しかった。

川西航空機が開発したもので初号機は1936(昭和11)年7月14日に、試作9試大型飛行艇として初飛行している。
9試と言うのは昭和9年に海軍から試作指示が出たことを示す。
シコルスキーS42を上回る巡航速度120ノット、航続距離2500マイル以上を目標として開発された。
川西の社内では「川西S型飛行艇」と言う呼び名もあったようである。

海軍の正式名称は97式飛行艇という。
当初、発動機や艇体の変更に伴って97式2号3型などと呼称されていたが、後に23型などと呼ばれた。
長距離哨戒・索敵・爆撃を用途として開発され合計179艇製作されている。
このうち15号艇・16号艇は試験的に輸送艇に改造された。
その後、新規に97式輸送飛行艇として36艇製作された。

輸送用の38艇は1940〜45年にわたって海軍と大日本航空海洋部で使用された。
内訳は海軍が20艇、日航は18艇である。

日航の南方航路は横浜−サイパン−パラオ−チモールのほか、サイゴン−バンコック線、サイパン−トラック−ポナペ−ヤルート線など西南太平洋のほぼ全区域にわたった。

佐藤氏の著書「日本民間航空通史」によれば、
  大日本航空の「綾波」号はパラオ−淡水間処女空路開拓のため、
  横浜−サイパン−パラオ−淡水−横浜間9237kmを
  飛行時間37時間12分で飛んだ。
  (昭和15(1940)年11月22〜27日)
とある。

この「綾波」号の登録付字は「J−BFOZ」であった。

しかし、パラオ・淡水線の定期便開設には至らなかった。

また、パラオからポルトガル領チモールを結ぶ「パラオ・チモール線」は1941年11月25日に定期第一便が飛んだが、その2週間後に戦争が勃発したため、1往復限りで終わってしまった。

したがって、幼年期の私が見たのは海軍の運用する輸送艇である。
南洋諸島やサイゴン・シンガポールなどと内地を連絡していたのであろう。
祖母が飛行艇長に頼んでシンガポールで買ってきて貰った子供用の編上靴のサイズが合わなくて、後日取り替えてもらったと笑っていた。
当時、祖母は淡水公会堂の管理人をやっており、そこを宿舎にしていた乗組員に頼んだものらしい。

旅客用輸送艇の哨戒・爆撃用の標準型と相違する点は
①後部胴体内部を客室とし定員10名分のソファ椅子が設置された。
②中央部胴体内部を寝室とし定員4名分の折畳ベッドが装備され、下段ベッドを椅子代わりに使用すれば6〜8名収容できた。
③郵便物および手荷物は艇首の航法室と操縦室の間の区画に収容した。
④客室の後部に化粧室および荷物室を設け、さらにその後部を貨物室とした。
⑤寝室と乗務員室の間に調理室を設け冷蔵庫などを置いた。
⑥乗務員は、機長・正副操縦士・通信士2名・機関士2名・給仕1名の8名を標準とした。
⑦非常口を増設し、防音・換気・照明・暖房・スピーカーなど長距離旅客輸送艇として艤装されていた。
の諸点である。

内地から、飛行艇が着水し、目の前の淡水河に係留されると迎えの小艇が乗客を迎えに行っていた。

翼端のフロートが水面に着いて支持するため、浮遊状態の飛行艇は少し傾いていた。

カットの写真は机上に置いている翼幅13cm、長さ8cmの小さな模型である。

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