2006年07月10日

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(飛行船:66) 『飛行船の黄金時代』 第2章:大西洋横断旅客飛行船の夢(3)

ZR3_fromHangar.jpg

(前回からの続き)

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第一次世界大戦に勝利した連合国は、彼等の国際的商用飛行船の競争相手となるドイツの飛行船産業を潰すことを決めた。

ベルサイユ条約は全てのツェッペリン飛行船の解体、軍用格納庫・ガス発生施設の破壊もしくは引き渡し、建造用格納庫・飛行船建造工場の破壊を要求した。

これはツェッペリン飛行船製造会社の終焉を意味したが、エッケナー博士はアメリカ海軍向けの新しい最新設計の飛行船調達契約を獲得することに成功した。

その見返りに米国政府はフリードリッヒスハーフェンの建造用格納庫と工場施設を、少なくとも「LZ126」の完成まで認めることにした。

連合国側の大使会議はツェッペリン社に対する米国海軍の承認を公式に認め、飛行船の大きさを 2,500,000立法フィートに制限した。
なおその上に、その飛行船は「商用目的」に使用するものと明記され、それ故必然的に旅客型にせざるを得なかった。

「LZ126」が最後のツェッペリンになるかも知れない可能性に直面してエッケナー博士とスタッフは彼等の建造する最初の大西洋横断飛行船に堅牢で先進的な設計を行い、マイバッハの工場で特別に開発された新型400馬力のV12エンジンVL-1を装備した。
5基のエンジンのうち4基はそれぞれ個別のゴンドラに搭載されて左右対称に取り付けられ、残りの1基は中心線上に配置された。

「ボーデンゼー」の場合と同じく船首部に、先端に操縦室のある長いゴンドラが設けられ、その後部には5つのコンパートメントがあ用意されそれぞれに4人の乗客を乗せ、座席は夜間にはベッドにすることが出来た。
小さいけれどよくまとまった電気式調理室、無線室、右後方には洗面所とトイレットが設けられていた。

このように「LZ126」は20人の乗客が大西洋を横断する数日間快適に過ごせるようによく装備されていた。

ニュージャージー州レークハーストの米国海軍基地に引き渡しのために飛行することになり、エッケナー博士が指揮して、大したトラブルもなく1924年10月の12日から15日にかけて81時間の飛行で大西洋を横断した。

この飛行船は「ロスアンゼルス」と命名されて8年間無事に就役し、その後経済性の観点から係船されていたが、最終的に1939年に解体されている。

「ボーデンゼー」の旅客飛行のときのように「ロスアンゼルス」の大西洋横断飛行の成功はアメリカ人の間に非常に大きい反響があった。

このことがあって、先に述べたようにグッドイヤー・ツェッペリン社を興すときにカール・アルンシュタイン博士と12人のツェッペリン社からの技術者が渡米してアメリカの会社の設計部門の中核となったのである。

ドイツ製の「ロスアンゼルス」はツェッペリン社の最後の飛行船にはならなかった。

1926年5月7日の大使会議のあと、ベルサイユ条約のドイツ民間航空に対する制限が緩和され、ツェッペリン工場のそれ以上の破壊の話はなくなり、エッケナー博士は資金さえあれば自由に飛行船を建造できるようになった。

彼は大西洋横断定期飛行船を実現するためにドイツとアメリカの財界を説得しなければならなかった。

我々が1934年にフリードリッヒスハーフェンに赴任したときには「グラーフ・ツェッペリン」が偉大なパイオニアであった日々は過去のものとなっていた。
同船は1931年の秋から南アメリカへの旅客輸送に従事していた。

私は、この世界的に有名な飛行船で沢山の経験をするために、リオ・デ・ジャネイロ航路を6往復するという、金銭で評価できない素晴らしい体験を楽しむことが出来た。

エッケナー博士の意向で、ツェッペリン飛行船製造のあらゆる活動の場に行くことが認められたし、殆ど乗組員と同じように扱って貰えた。

操縦室で3直制の当直にも組み入れて貰ったし、しばしば方向舵や昇降舵を操作したし、そのほか乗組員の一員として何処へでも行くことが出来た。

(第2章:おわり)

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上の写真は私のコレクションの中の一つで日本で印刷された着色絵葉書である。
「LZ126」はアメリカ海軍に引き渡されて「ZR3」と命名された。
「ロスアンゼルス」は愛称である。
当時、アメリカでは不活性ガスであるヘリウムを工業的に生産出来るようになっていたのでアメリカの飛行船は爆発する危険性のある水素ガスの代わりにヘリウムを使うように義務付けられていた。
しかし、ドイツには使用を認めなかった。
従って「LZ126」はドイツから水素を充填して大西洋を渡り、ニューヨーク郊外のレークハーストに着いて「ZR3」(「ロスアンゼルス」)と命名されてからヘリウムガスに置換されたが、そのコストは水素の40倍とも60倍とも言われている。

ZR3_inHangar.jpg

この写真も上の絵葉書と同じシリーズである。

ベルサイユ条約で軍用の格納庫9棟が解体されて、日・仏・伊に移築された。
「LZ127」(グラーフ・ツェッペリン)が1929年に世界一周飛行で東京に飛来したときに同船を収容した霞ヶ浦の格納庫もその一つである。
この絵葉書にあるレークハーストの格納庫はグッドイヤーが「ZR1」(シェナンドア)を建設したときに建造したものであろうか?


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