2006年07月20日

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(飛行船:73) 『飛行船の黄金時代』 第5章:クヌート・エッケナーとその父(1)

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第5章:クヌート・エッケナーとその父

1934年の夏、私はエッケナー博士の子息クヌート・エッケナーと知り合いになる機会があった。
およそ私と同年代であった彼は Diplomingenieur(工学士)であり、私は自分の国の工学修士に相当すると思った。

クヌートは「LZ129」の建造と組立に関する主要な情報源であった。
我々には多くの共通の興味の対象があり、2人とも飛行船について非常に熱意を持っていることも共通していることがすぐに判った。

「グラーフ・ツェッペリン」の飛行の合間にクヌートはコンスタンツ湖周辺の良いポイントや、ドイツ人が日曜の午後に「コーヒーとケーキ」を楽しんだりこの地域の名産であるスモークハムで美味いビールを飲むお気に入りの場所などに案内してくれた。

昼食には美味いババリアのビールとライ麦パン、それにソーセージをよく食べた。
2人でそれを楽しんだものである。

私が2度目にフリードリッヒスハーフェンに滞在したとき私とクヌートはさらに親しくなっていた。

1935年から1938年までの間にクヌートの責任は相当重くなっていた。
1938年には、彼は何処で製造されたものにせよ全ての外注製品に、飛行船の製造・組立・搭載の全てと同じように直接責任を担っていた。
クヌートの監督を受けないものは機械工場の製品だけであった。

1938年に私はクヌートから最高の賛辞を受けた。
彼がツェッペリン飛行船製造社の経営者である彼の父から何も聞かずに褒めてくれる筈はなかった。

クヌートは飛行船の建造と搭載を担当しており、彼と同じ事務室にいる助手は出掛けるところだった。
クヌートは、私にグッドイヤーを離れて彼と同じ事務所で彼の助手として飛行船の建造を監督してはどうかと提案した。
私は彼を非常に尊敬しているが、この立場は受け入れられなかった。

フリードリッヒスハーフェンで著名な人物は彼の父親であった。
私がフリードリッヒスハーフェンで過ごした5年間の大部分の期間、特にその末期はエッケナー博士と非常に親しくなっていた。

彼は飛行船を建造する会社であるツェッペリン飛行船製造のトップであり、1935年に運航会社ツェッペリン・レーデライが設立されると両社の社長になった。

運航会社のレーマン船長、製造会社のデューア博士はともにエッケナー博士に直接報告していた。
「ヒンデンブルク」の事故でレーマン船長が亡くなるとイッゼル氏が運航会社のマネージングディレクターを引き継いだ。

エッケナー博士は1934年にリオに行く「グラーフ・ツェッペリン」に我々と共に乗船したが、「ヒンデンブルク」が飛行を始めた1935/6年には乗船せず、博士は優しく見守りながら任せているようになった。

彼は、私がドイツの人達と彼等の習慣を共にしたり、山登りを楽しんだりしていたことを良く知っていた。
私がドイツの政治的立場を尊重することも判ってくれた。
彼はナチを好まなかったし、ヒットラー礼賛にも賛成していなかった。

彼は私がドイツに行く以前に、ナチによってその立場が悪くなっていた。
1932年の夏にフリードリッヒスハーフェンの町の長老が訪ねてきて、大きな建造用格納庫をヒットラーのために政治的集会に使わせてくれと申し入れてきた。

博士は断った。
彼は海を越えた輸送や商用のために常にそこで飛行船の維持・整備をしていたのである。
このことが彼をナチとのトラブルに巻き込み、そして1936年6月のプロパガンダ飛行に出発する際の離陸で再燃した。

(続く)

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写真は「ヒンデンブルク」の船尾で足場の上に立つクヌートである(同書:P46)。

原形の設計では船尾はもっと尖っていて長さは7フィート長かったが「ヒンデンブルク」がレークハーストの格納庫に入れるように短縮され丸められたのである。

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