2006年07月22日

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(飛行船:74) 『飛行船の黄金時代』 第5章:クヌート・エッケナーとその父(2)

Rosendahl&Dick.jpg

(前回の続き)

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着陸フィールドを横切って飛行船工場へ行く道路と、歩道で工場に行く途中何度もエッケナー博士が彼の愛車マイバッハで通るのに遇い工場まで乗せてくれた。

彼はすぐ彼の事務所に行かずに、2人でそこに座って私がハイキングやスキーに行く山の話をした。
彼はオーストリアやスイスの山のことを非常に良く知っており、いつも次にはどの山に登ればいいか勧めてくれた。
このような山の話が、時には1時間も2時間にもなることがあり、気がついて慌てて仕事に行くこともあった。

1936年の夏、私は既にご老体と親しくなっていたが、多分彼は話を聞いて私がどんな反応を示すか判っていた。

それはエッケナー博士に関することであった。
最初の試験飛行の時はツェッペリン飛行船製造の従業員以外には私しか乗っていなかったが、その「ヒンデンブルク」に試験飛行で乗っていたときの彼の最後の言葉で知った。

そこには来賓も、航空省の代表も、合衆国海軍も、報道陣もいなかった。

一ヶ月後「ヒンデンブルク」最初の南アメリカ飛行で、エッケナー博士が信頼して秘密を打ち明ける相手に私を選んで話してくれた内容は次のようなことであった。
ナチの宣伝相ゲッベルスが、彼は「存在しない人物」でドイツの新聞には彼の名前を出すことも写真を載せることも禁じたと知ったというのである。

レークハーストでは1936年10月9日に「ヒンデンブルク」が『百万長者の飛行』と呼ばれる飛行で多くのアメリカの実業家や、政府の要人や、合衆国海軍の上級士官を含む101人の乗客を乗せて飛んでいた。

着陸は夕暮れ近く、その時間に船は地上にありエッケナー博士と私は彼を訪ねる来客のために非常に多忙な午後を過ごした。

私がレークハーストでドイツ人の作業の手伝いに加勢していた時のことである。
「ヒンデンブルク」が着陸したとき私は博士の近くにいたが、博士は船を離れるときに私を近くで見た。
誰もが、特に記者やカメラマンがエッケナー博士と話をしたそうに見えた。
そのとき彼はほかの皆に背を向けて、あたかも非常に重要な話があるように私の方に急いできた。
彼は私にとてもつまらない話をしはじめたので私は彼の意図が判った。
彼は非常に疲れていて、全ての活動から離れて小さな平和と安静を必要としていたのである。

我々は多くの人達から離れてフィールドを横切り、米海軍飛行船司令の家に続く道を歩いた。
そのときの司令はチャールズ E.ローゼンダール中佐であった。

博士は声が聞こえないところまで来るとすぐに話を止め、我々2人はフィールドをローゼンダール邸まで静かにゆったりと歩いてそこに彼を残して去った。

それは私がドイツで何度も見た博士の行動であった。

偉大な公の大立者に掛かる過酷な圧力から逃れようとする彼の手段であった。

(第5章 終わり)

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見出しの写真は1938年7月8日に撮られたもので、フリードリッヒスハーフェンのツェッペリン飛行船製造社の博物館を熱心に見学するチャールズ ローゼンダール中佐と著者のハロルド ディックである(同書:P46)

[訳者註:アメリカ海軍飛行船隊司令官チャールズ E.ローゼンダール提督(退役中将)はアメリカ海軍飛行船隊を育成した人物として歴史に名を残している。
ニュージャージー州レークハーストに近いトムズ・リバーに邸宅を構えていた。
第二次大戦後、飛行船の将来について大統領と意見を異にし退役したが、彼の退役式には飛行船の空中分列式が挙行された。]


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