2006年07月30日

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(飛行船:81) 『飛行船の黄金時代』 第6章:グラーフ・ツェッペリンの南米飛行(7)

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(前回からの続き)

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「グラーフ・ツェッペリン」はベルデ岬からフェルナンド・デ・ノロニャに行く間で赤道を越えた。

赤道通過の際、特別な儀式が行われ、初めて空を飛んで「赤道を越えた」乗客に証明者が交付された。

私が一番大事にしているのは最初の赤道通過で貰った証明書である。
「グラーフ・ツェッペリン」で16回、「ヒンデンブルク」で4回通過したが、その最初の横断であった。

証明書はエッケナー博士の弟であるアントン・エッケナーが描いたもので、南アメリカとアフリカに挟まれた皆に大西洋に、アフリカ海岸に鎖で繋がれた赤道のもう一方の端は南アメリカの椰子の木に繋がれ、風の神アイオロスが飛行船を赤道を越えて吹き飛ばす絵が描かれていた。

その証明書には
『我々、ヒッポテスの息子にして不滅の神の友人であり風の王国の支配者アイオロス、天候、貿易風、季節風と凪は厳正な審議の結果、地球生まれのハロルド G. ディックに「グラーフ・ツェッペリン」に乗って我々の赤道の通過を許可することを決定した。
1934年6月12日「グラーフ・ツェッペリン」船上にてこれを授与する。』
と書かれている。

私の証明書には非常に著名な多くの人の署名を貰った。

フレミング船長はその飛行で「グラーフ・ツェッペリン」の司令であった。
彼は第一次大戦の飛行船指揮官の一人であった。

フォン・シラー船長はその飛行で監視士官を務めていた。
彼は第一次世界大戦で5隻の飛行船の監視士官を務めた。

プルス船長もその飛行で監視士官であった。
彼は後に「ヒンデンブルク」の司令を務めた。

ザムト船長はもう一人の監視士官で、後日LZ130「グラーフ・ツェッペリンⅡ」の司令になった。

ヴィッテマン船長もその飛行で監視士官であったが「ヒンデンブルク」の惨事の起きた最後の航海で司令心得で乗船していた。
それは建造中も就航後もLZ130の司令を務める前提であった。
彼も第一次世界大戦の飛行船指揮官の一人であった。

ハンス・ラドヴィクはヴィッテマン船長当直時の航海士であった。
その組の当直で私は誰かが病気のためにペルナンブコで下船したときなど手不足のときに昇降舵・水平舵を代わって見ていたのである。

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写真はハロルド G.ディックの赤道通過証明書である[同書:P54]。
1934年6月12日に「グラーフ・ツェッペリン」船上で授与された。

赤道通過証明書には基本的構図は同じであるが細部は異なった版があるようである。

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