2007年04月24日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「紺碧の海」はこちらです ***

(飛行船:314) 「グラーフ・ツェッペリン」メモ(5:「LZ-126:ロサンゼルス」建造の経緯)

LZ126atFriedrichshafen.jpg

「LZ-126:ロサンゼルス」建造の経緯

私はかねてから、アメリカ海軍に戦後賠償として建造され、引き渡された「LZ-126:ロサンゼルス」に何となく腑に落ちないものを感じていた。

フリードリッヒスハーフェンからレークハーストまでツェッペリン飛行船製造社の責任で納入され、アメリカに引き渡されて浮遊ガスの水素を抜いてヘリウムが充填され、アメリカ海軍の「ZRⅢ」(愛称:ロサンゼルス)となったこの飛行船は乗客定員20名のれっきとした旅客用航洋飛行船であった。

Bild65.jpg

この写真は「LZ-126:ロサンゼルス」の客室である。
洋上を長期間、敵艦の探索や漂流者の救助を行う飛行船とは思えない。

次に建造された「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」はエッケナー博士の夢の乗り物、大型硬式飛行船のプロトタイプであったことはよく知られているが、「LZ-126」はさらにその試作船であると思えてならなかった。

船体形状だけでなく、指令ゴンドラの後部を旅客用キャビンにしていることも、主船体の下に取り付けられた5基のエンジンゴンドラも、旅客定員が20名であったことも共通している。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

話はドイツの第一次大戦敗戦に遡る。

第一次大戦で降伏したドイツに連合国側が突きつけたものは1320億マルクという払いきれない戦時賠償だけではなかった。
(この途方もない賠償額を棒引きにするためには、もう一度戦争をして勝つしかほかに方法がないと考えても無理はなかったと言われている。)

僅かに残った商船も潜水艦も、格納庫すら解体して連合国側で分配してしまった。
ツェッペリン社に残った飛行船もヴェルサイユ条約締結後、イタリア、フランス、日本に引き渡されるか破壊された。
もちろん軍隊は武装解除の上、縮小され飛行機も武器も製造禁止である。

DELAG社とツェッペリン飛行船製造の社長として、エッケナー博士はアルミのコップや鍋の製造の傍ら、飛行船の平和利用を模索し始めた。

ヴェルサイユ平和条約の締結前、1918年8月になけなしの資材をつぎ込んでガス容量2万立方mの旅客用硬式飛行船を建造した。
「LZ-120:ボーデンゼー」である。

1919年7月に締結された条約ではドイツで建造が許される飛行船のガス容量は3万立方mと決定されたので「ボーデンゼー」は後に2万5千立方mまで拡大された。

この「ボーデンゼー」1隻で、フリードリッヒスハーフェンとベルリンの間600kmを往復する定期航路を開設した。鉄道では28時間かかるところを6時間で結ぶので、定員の20席は450マルクという高い料金でも一週間前に売り切れており、30人載せて運航したこともあったと言われている。
8月末から年末のシーズンオフまでに100回以上運航されたという。

しかし、この「LZ-120:ボーデンゼー」も、北欧との定期空路を狙って建造された同形船「LZ-121:ノルトシュテルン(北極星)」も、イタリアとフランスに賠償に取られてしまった。
アールホルン基地で賠償に指定され、破壊活動で壊された軍用飛行船の肩代わりとして持って行かれたのである。

英仏など連合国側はドイツの飛行船産業を根絶やしにするつもりであったようである。

一方、同じ戦勝国側ながら大西洋を隔てたアメリカにとっては、字義通り対岸の紛争であった。

これから飛行船の時代が来ると読んだアメリカは、ドイツの技術を吸収することが効果的であると考え、1923年にそれまで軟式飛行船を製造していたグッドイヤー社とツェッペリン飛行船製造との合弁会社アメリカ・グッドイヤー・ツェッペリン・コーポレーションを設立した。
副社長にエルンスト・レーマンを迎え、1924年の秋にはツェッペリン飛行船製造から「アルンシュタイン博士とその12人の弟子」と呼ばれる技術者を受け入れ、後に「アクロン」や「メーコン」を建造した。

アメリカは大戦中フランスで捕獲された「L49(LZ-96)」を徹底的に調査し、これをモデルに世界で初めてのヘリウム飛行船「ZRⅠ:シェナンドア」を建造していた。

第2船「ZRⅡ」には、技術導入の意味もあったと思われるが、イギリスから「R38」を購入することになっていた。
「ZRⅡ」になるはずであった「R38」は順調に建造され、機能確認テストが行われていたが1921年8月23日、17人のアメリカ海軍要員を載せて試験飛行中、44名の犠牲者を道連れに海に墜落してしまった。

その直後、エッケナー博士はアメリカに、これに代わる新しい大型硬式飛行船を建造し、賠償として納入すると提案したものらしい。

ツェッペリンとグッドイヤー合弁の話も進んでいたであろし、賠償とする飛行船の仕様については特に注文もつけなかったのであろう。

ツェッペリンの設計主任、ルードウィッヒ・デューア博士は何度も試設計を行い、1922年に建造が開始された。

エッケナー博士の記憶には、大戦中占領地のブルガリアから現在のスーダンの南にあった独領東アフリカまで物資補給に行きながら現地のドイツ軍が降伏したため6800km、95時間の無着陸大回遊飛行をした「L59(LZ-104)」の実績が刻み込まれており、渡洋旅客用飛行船への確信となったのであろう。

義援金を募る必要もなく大型旅客用硬式飛行船を計画・設計・建造出来、それでドイツのアメリカに対する戦時賠償を精算し、自分たちの手で大西洋を渡ることはエッケナー博士にとっても願ってもない機会であったことであろう。

これで「LZ-126:ロサンゼルス(ZRⅢ)」の計画・建造・納入の経緯に納得できたような気がする。

「R38」の犠牲者には申し訳ないが、あの事故がエッケナー博士にチャンスを与えてくれたのである。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ちなみに、「LZ-122」、「LZ-123」は設計のみで終わり、「LZ-124」も連合国側によって中止させられている。大型の「LZ-125」も計画のみである。
また、「LZ-128」は大型の水素ガス飛行船として設計されたが、アメリカからヘリウム供給を受けることを前提に「LZ-129」が計画されたため、これも設計図のみで建造されなかった。

「LZ-129:ヒンデンブルク」にはナチの軍事転用を懸念してヘリウムが供給されなかったが、同型船「LZ-130:グラーフ・ツェッペリン」は「ヒンデンブルク」の事故のあと建造されのでヘリウムの使用が認められた。

Comment on "(飛行船:314) 「グラーフ・ツェッペリン」メモ(5:「LZ-126:ロサンゼルス」建造の経緯)"

"(飛行船:314) 「グラーフ・ツェッペリン」メモ(5:「LZ-126:ロサンゼルス」建造の経緯)"へのコメントはまだありません。