2007年06月04日

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(飛行船:346) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(2)

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(ツェッペリン伯爵:フリードリッヒスハーフェンのツェッペリン博物館の絵葉書から)

エッケナー博士の回顧録 "Im Zeppein ueber Laender und Meere" の序章冒頭を読んでみた。

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 序

 「哲学者」であり政治経済学者ではあるが、まったく航空士とも技術者とも無関係なところに居た私が、如何にしてツェッペリン伯爵とそのアイデアの虜になったのか、どう説明すれば良いのだろう?
私は、この私自身の好奇心や願望に関していろいろ調べてみたが、それらは多かれ少なかれ正しく、あるときは喜び、あるときは悩み、結局自分で書いてみるのが良いと感じた。
 1900年9月、私がときおり短い原稿を送っていたフランクフルター・ツァイトゥンク紙の編集部から、間もなく行われる予定の「ツェッペリン伯爵のこれから行われる飛行実験に関するレポート」を書かないかと打診があった。
同紙は7月に行われた試験飛行のレポートの一つを送ってきていたが「誰かが、ボーデン湖に関して再度書き送っても何の価値もない」と思っていた。
私は7月の飛行実験の際、フリードリッヒスハーフェンには居なかったが、ツェッペリン伯爵の実験にはあまり興味がなかった。
当時、バルト海でヨット巡航を楽しんでいたのである。
私が読んだ1900年7月に実施された、最初の試行に関する新聞記事に記載されていた難しい問題と重要事項の解は、ボーデン湖に行って確かめることだと思った。
それで、フランクフルター・ツァイトゥンク紙の取材を引き受けた。
そして実際に、10月に行われた飛行実験をレポートしたが、冷静で論評的な論調で書いた。

 後に、私に関して述べられている、私が最初に会ったツェッペリン伯爵を「対立者」としたり、「サウルがパウロ」に変わったと言われたことは事実ではない。
私はただ、金属のフレームで出来た重い船体が実際に空中に浮き、一定の速度に到達しており、当然それは操縦可能であるが、そのときに達した時速13〜16マイル(毎時20〜25km)は穏やかな風にしては遅すぎると述べ、そのことを助言したに過ぎない。
各16馬力の2基のエンジンでは、それ以上の速度は出せなかった。

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[註]
この文中の「サウルをパウロに変える」という表現が判らなかった。
協力者のJが調べてくれた。

キリスト教の使徒、パウロの話である。

使徒の1人であるパウロは、かつて熱心なユダヤ教徒であり、熱心さのあまりキリスト教会を迫害していた。
そのころ、彼はサウルと名乗っていた。
ダマスコに行く途中で、サウルはイエス・キリストの啓示にあい、キリスト教を迫害してきた自分を赦すキリストの教えに目覚め、改心して使徒となり、名をパウロに改めたという話である。

小さい字でびっしり4頁にわたって書かれた「迫害者サウルから使徒パウロへ」という項にはサウル、パウロの名の意味まで書かれているがここでは割愛する。

我々、キリスト教徒でないものは、外国の書物を読んでいて時々戸惑うことがある。

本題に関係の薄い場合もあるが気になるものである。

協力者Jに感謝。

なお、ツェッペリン伯爵やエッケナー博士の伝記には、このとき博士が伯爵邸を訪問したり、伯爵が博士宅を訪ねると書いてあるものがあるが、実際に会って話をしたのは5年後の「LZ-2」の事故の後である。

見出しの絵葉書は今回訪問したフリードリッヒスハーフェンのツェッペリン博物館で入手したものである。

このアルミの入ったキャップは後日、伯爵のトレードマークになったが、エッケナー博士宅を訪問したときはモーニングを着用しシルクハットを被っていたと言われている。


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