2007年06月22日

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(飛行船:364) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(20)

LZ127ceremony.jpg
(「グラーフ・ツェッペリン」の命名式)

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 ZRⅢ(ロサンゼルス)の飛行(12)

なんとか成功し、再び国民のツェッペリンに対する情熱を引き出すことが出来、国を挙げて協力する準備が整った。

しかし、間もなく 私と協力者が精一杯頑張って講演活動を行っても、新しい飛行船を建造するに必要な資金を集めるのは困難であると判った。

大西洋を安全に定期的運航する、充分に積載能力のある新造飛行船建造に必要な資金はおよそ百万ドルであった。

この事業を始めるにあたって、ヒンデンブルクのような、真の意味で高能率な飛行船を建造することは諦めなければならなかった。

しかし、ツェッペリン・エッケナー義援金の講演会活動で、緊急に必要な資金を集めるよりほかに施策はなかった。

最終的に「ツェッペリン・エッケナー義援金」によって、新造飛行船建造のために約75万ドル集めることに成功し、建造を開始することが出来た。

最後に政府は、その飛行船を完成させるために25万ドル以上を拠出してくれた。

その飛行船の計画にあたり、沢山の要求事項を満たさなければならなかった。

それは大陸間を郵便物、航空貨物、渡航客を載せて運航できる、最初の航空機であった。

それは、単に飛ぶのではなく、航海できる飛行船でなければならなかった。

そのためにガス容量は「LZ-126:ZRⅢ」の7万立方mではなく、10万5千立方mで、長さは236.5m、最大直径は30.5mとして計画された。

最大出力530馬力のエンジンを5基搭載し、時速128〜130kmが期待された。

長いゴンドラが船首に取り付けられ、その中に操縦室、航海室、無線室、それに必要にして充分な調理室、そのうしろは広いラウンジ兼ダイニング、ツインのステートルームが10室設けられる。

乗客を輸送するには必要最小限の船内配置であったが、大きな飛行船を建造するほどの資金はなかったのである。
その飛行船は、大西洋を安全に商用渡航できる最小限度の寸法であった。

経済的にも空力学的にも満足できる飛行船ヒンデンブルクの建造に取りかかるのは8年近く後のことであるが、それはほぼ倍の大きさであった。

但し、この制約された寸法には好都合な点もあった。
実を言うと、ツェッペリンは如何なる天候でも運航することを納得して貰わなくてはならず、そのための海洋上空でどうなるかという経験が不足していた。

それでグラーフ・ツェッペリンは、飛行船に限らず海洋を飛ぶあらゆる種類の航空機にとって、航路開拓の練習船となったのである。

航空の幼児期には、特に必要なことであった。

7月はじめに、飛行船はほぼ出来上がり、老伯爵の誕生日である7月8日に、伯爵の一人娘であるブランデンシュタイン・ツェッペリン伯爵夫人によって「グラーフ・ツェッペリン」と命名された。

私はこの船名を、飛行船の価値とそれを建造する意義にかかわる決断を下し、この飛行船の運命を決定した人物にちなんで選んだ。

結果は、勝利と名声を勝ち得るか、欠陥のために消えてゆくかのいずれかである。

その後、短い試験飛行が実施され、あらゆる観点から充分満足できるものであった。

有効揚力は予測より幾分高めであり、操縦性は良好で、エンジン全開で約130キロの時速は期待通りであった。

船体構造には小さな欠陥も見あたらなかった。

こうして、行く手に確信をもって「グラーフ・ツェッペリン」が大洋を最初に横断する飛行を待ち望んだ。

10月12日、アメリカ発見の日、コロンブスデーがその日に予定された。

 (ZRⅢ(ロサンゼルス)の飛行:終わり)

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[註1]単に飛ぶだけでなく航海できる航空機
現在、世界中を飛びまわっているジェット旅客機のエコノミー席は航海とはほど遠い。
イギリスの「ショート・エンパイア」(Cクラスボート)やアメリカ(シコルスキー・マーチン・ボーイング)の「クリッパー」と呼ばれる飛行艇が大洋横断航路を開設した頃は乗客は夕刻になると寄港地のホテルで宿泊し、あるいは水上に繋留されて静かに食事を取りベッドで休むことが出来た。
昼間は飛行艇のプロムナードやバーでゆったり旅を楽しめたと言う。

[註2]グラーフ・ツェッペリンの外形寸法
「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」の基本計画では、設計主任のルードヴィッヒ・デューア博士は何度も設計し直したと言われているが、条件が厳しくて苦労が多かったと思われる(しかし、設計者としての醍醐味はここにある)。
第一、大戦で多くの格納庫が解体され、使用できる建造用格納庫はフリードリッヒスハーフェンの第2格納庫しかなかった。このため天井と両側のクリアランスが僅かしかなく、引き出すときには要所要所に人を配置して注意深く行わねばならなかった。
特に天井が低く、このためゴンドラは主船体にめり込むように設計された。
このため、細長い船体と相まって、ヒンデンブルクに較べて随分スマートで見た目のよい形になった。
基本設計で制約のあったのは主船体の大きさ、即ちガス容量にも条件が加わった。
長距離飛行して燃料消費が大きくなると船体重量がそれだけ少なくなり、浮揚ガスを放出しなければならなくなるので、主燃料にヘルマン・ブラウ博士の考案したブラウガスというプロパンを主体にした気体燃料を採用したのである。このため浮揚ガスの水素ガス嚢と燃料ガス嚢を収容出来る容量となった。
ちなみに、この飛行船は無線室と厨房で使う電気はプロペラによる風力発電で賄っている。
後に「LZ-129:ヒンデンブルク」を建造するときは新しく大きな建造用格納庫が建設された。

[註3]命名式
多くの書籍では「グラーフ・ツェッペリン」の誕生日である7月8日に挙行されたと書かれている。
しかし、ツェッペリン社の監修を受けたとされるタバコカードアルバムには命名式の飾りを施された格納庫内の同船の写真に7月9日と明記されている。
ZRⅢの出発日のように、誕生日を目標に計画されたが何らかの事情で9日に繰り延べられた可能性も考えられる。
ツェッペリンの伝説にはこれに類する話は多い。
なお、初飛行は9月に挙行された。

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