2007年07月26日

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(飛行船:400) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(54)

WeltFahrt.jpg
(世界一周航路:R.Archbold,K.Marschall著"HINDENBURUG"から転載)

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 世界周航(7)

全航程2万kmの旅の順調な滑り出しであったが、この先に長いルートが待ちかまえていた。
およそ7千kmを飛行してきたところである。

フリードリッヒスハーフェンには5日間留まった。

主にレークハースト往復で判明した要改良点の補修であったが、フリードリッヒスハーフェンから参加する乗客を待つためでもあり、大飛行の前に船体やエンジンを更に点検するためでもあった。

フリードリッヒスハーフェンで乗り込む客のうちで主要な人物はドイツの新聞特派員で、彼らは当然のことながらフリードリッヒスハーフェンからフリードリッヒスハーフェンまでの「ドイツの世界一周」のつもりで参加した。

ロシア政府からの3人の代表も一緒にロシア領上空を飛行するために乗船したが、後になって我々とちょっとしたトラブルを引き起こすことになる。

アメリカ海軍省代表のローゼンダール司令は当然ながらレークハーストから乗船していた。

総勢で20名の乗客と41名の乗組員を乗せて、早朝「世界一周飛行」に飛び上がった。
天候は穏やかな快晴であった。

ウルム、ニュルンベルク、ライプツィッヒを経てベルリンに行き、11時前にウンターデンリンデン上空に達した。

首都の人々に、出発に当たって飛行船の姿をお披露目して、そこから日本の首都へ挨拶を届けるのである。

ベルリン市民はこの気持ちをよく理解してくれたようで、ウンターデンリンデンを低空でゆっくり飛ぶ飛行船に熱狂的挨拶を送ってくれた。

私はちょっと変な気持ちになった。
時は流れても日本は大戦中我々の敵国であり、中国のドイツ領を奪っている。
世界はすぐに忘れるが、これは外交の面では良いことであり、ほかの方法では古い確執を取り除くことは出来ない。

そのあとフレミング船長がそこに住む年老いた母上にお別れのメッセージを投下するために進路をシュテッティンに取った。

そこからダンツィッヒ、ケーニッヒスブルク、ティルシットを経てバルト海岸に沿って進み、午後6時にロシア国境を越えるように航行した。

そこからどうすべきであろうか?

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NordEuropa.jpg

[註]国境線
ヨーロッパも戦争のたびに国境が変わっており、独仏国境のアルザス・ロレーヌ地区(ドイツ読みでエルザス・ロートリンゲン)は仏領になったり独領になったりしている。
当時シュテッティンもダンツィッヒもケーニッヒスブルクも独領であったが、第2次大戦後シュテッティン、ダンツィッヒ(グダンスク)はポーランド領、ケーニッヒスブルク(カリーニングラード)は露領になっている。
 それにしてもエッケナー博士は第一次大戦で日本が日英同盟で連合軍側になり、軽巡エムデンなどもいた青島など膠州湾や、南洋諸島の移管を受けたことにこだわっているように見える記述である。
地図の左辺にベルリンが見える。ポーランドとの国境線を越えて北上したところにシュテッティンがあり、海岸沿いに東に辿るとダンツィッヒ(グダンスク)、更に東に国境を越えたところにケーニッヒスブルク(カリーニングラード)が見える。
(地図は PHILIP'S POCKET WORLD ATLAS から転載)

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