2007年08月03日

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「ヒンデブルク」と「ブレーメン」と「ユンカース」

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今年4〜5月に訪独したとき、メーアスブルクにありウーバン氏の運営しているツェッペリン博物館で購入した絵はがきの1葉である。

一目見たとき気に入って買ってしまった。

一番上に描かれているのは「LZ-129:ヒンデンブルク」である。

ツェッペリンの飛行船で最も有名なのは「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」であるが、あれは資金も限られているなかで建造された、大西洋横断旅客飛行船のプロトタイプであった。

「LZ-127」の旅客定員が20名であったのに対し、その運航実績を踏まえて建造された「LZ-129」は新造時、ツインキャビンを25室用意して定員50人で運航開始された(後に増設)。

ツェッペリン飛行船製造とDELAGを伯爵から受け継いだエッケナー博士の夢の乗り物と言われていた。

絵はがきの中程、やや下に描かれているのは北ドイツロイド(NDL)の高速客船「ブレーメン」である。

「ブレーメン」はそれまで英米に支配されていた北大西洋航路に「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」の完成した1929年にデビューした。
処女航海で大西洋横断速度記録を往復とも更新し、キュナードの「モレタニア」が長年保持していたブルーリボンを奪還し、姉妹船「オイローパ」と共に既存の客船を旧式化させたと言われるエポックメーキングな客船であった。

その上に描かれているのは Tante-Ju(ユーおばさん)と親しまれたユンカースの名機 Ju-52 である。

Ju-52 は、「グラーフ・ツェッペリン」「ブレーメン」就航翌年の1930年に初飛行しているがそのときは単発であった(1号機:「D-2201:ベルケ」、2号機「D-2202:リヒトホーフェン」)。
その後、描かれているように3発機(Ju-52/3m)として航空史に残る名機となり、総生産機数は4835機と言われている。
旅客機仕様では乗客定員15名であったが、航続距離は1300km程度であり、飛行船のそれの1割程度で渡洋飛行は望むべくもなかった。

ドルニエの双発飛行艇 Do J "Wal" は1926年にスペインからアルゼンチンのブエノスアイレスまで1万kmを60時間掛けて飛んでいる。

当時は大洋を横断出来るのは、船舶か飛行船か飛行艇に限られていたのである。

バックもブランデンブルク門、ニューヨークの摩天楼、南米などワールドワイドな感じが出ていて好感を持てる。


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