2007年08月09日

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(飛行船:412) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(64)

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(金華山南西の網地島:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

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(日本沿岸の山並み:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

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(三陸の漁村:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

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(三陸沿岸:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

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(霞ヶ浦航空隊の格納庫:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

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 世界周航(17)

しかし、台風は逸れていった。

午後10時にニコラエフスクに着くまで非常に良い天気で、南から南東の軽風であった。
その後、北東から雲が現れた。

まもなく雲は厚くなり、すっかり雲に覆われてしまい、もう海面は見えなくなった。

これは両側に、どちらも高い山の連なるサハリンとシベリア本土の間の狭い海峡を通っているので、あまり好ましくなかった。

その頃、東に移動している台風の北西にいた。
その結果、徐々に北よりの追い風となり、飛行船は台風の後を追って南に飛んだ。

このためサハリンの山岳に吹き寄せられないように、さらに西に舵をとるよう指示した。

このときシベリア本土に近付いていたらフェーン現象により良好な視界が得られたと思う。

そんなわけで2〜3時間、厚い雲の中を航行していた。

その後 雲は幾分薄くなり、毎秒15〜16mの北風に後押しされていることが判った。

計算は間違っていなかった。
夜明けに北海道の西側に居り、午前6時には積丹半島の神威岬の燈台の上を飛んでいた。
そこから雨の中を函館の大きな燈台に向けて飛び、雨が上がって本州沿岸を進んだ。

この世界周航のうちで最も長く、最も困難な部分を無事に乗り切ることが出来た。

この先も我々の前には、社会的にも政治的にも責任のある問題が控えていた。

次の着陸地点は霞ヶ浦であり、遠くにその格納庫が輝いているのが見えた。

そこは非常に賑やかであった。
数十万人の人が飛行船を見るために道に溢れていた。

後で聞いた話では、数千人の男女が夜通し、長距離を飛来する飛行船を待っており、女の人のなかにはは背中に赤ん坊を負ぶっていた人も居たそうである。
歴史的意義のある出来事を目撃しようとしていたのである。

高速汽船で1ヶ月近く掛かり、シベリア鉄道でも2週間以上掛かる距離を、西方遙か遠くのベルリンから飛行船は4日足らずで来たのである。

過去2〜30年にわたって謎めいて危険な人達が、その当時の敵対してにもかかわらず行き来する人の数は増え、遠い東洋が中央ヨーロッパと仲良くしているのである。

いまや、空を飛べばこんなに早く来ることが出来るようになった。

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[註]シベリアから日本への軌跡
大圏コースに従ってシベリアを通って来た「グラーフ・ツェッペリン」は、北緯64度線からスタノボイ山脈の切れ目をアルダン川(レナの支流)に沿って東海岸に聳えるジュグジュル山脈を越えてアヤン港に出た。
そこから間宮海峡を南下し、積丹半島をかすめて南西に進み、左に舵をとって渡島半島を横切って内浦湾に入り、三陸沖を金華山まで南下して朝日新聞社機に撮影されている。
(このとき、毎日機は日本海側で待ち受けていたので撮影することが出来なかった)
その後太平洋岸沿いに霞ヶ浦まで南下して、そのまま東京・横浜を表敬飛行している。


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