2007年08月14日

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(飛行船:417) エッケナー博士の命日

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8月14日はフーゴー・エッケナー博士の命日である。

エッケナー博士はフェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵と共に硬式飛行船の同義語のような著名な人物である。

1868年8月1日にデンマークとの国境に接し、バルト海に面した北端の港町フーレンスブルクで生まれ、終戦後の1954年8月14日に南ドイツ、ボーデン湖畔で亡くなった。
享年86歳であった。

彼はエッケナー博士と呼ばれていたが、工学博士ではなく経済学博士・哲学博士であった。

ツェッペリン伯爵のあと、ツェッペリン飛行船製造社と運航会社であるDELAGの社長として、第一次大戦後ツェッペリン飛行船を守り育て人物として航空史上に名を残している。

歴史上最も有名な航空機である「グラーフ・ツェッペリン」を完成させ、それを指揮して世界一周飛行をしたことは有名である。

その「グラーフ・ツェッペリン」は実際に旅客を乗せて大西洋横断飛行を行う実用試作船であり、世界に宣伝目的の飛行船でもあった。
1929年9月18日の初飛行から1937年5月8日の最終飛行まで590回の飛行を無事故で達成し、17,177時間、距離にして170万kmを乗客13,110名、郵便物39,219kg、貨物30,442kgという不滅の大記録を残している。

そしてエッケナー博士の理想に近い形の旅客用硬式飛行船「ヒンデンブルク」が完成し、運航される頃、ナチスの圧力で博士は表舞台に出てこなくなっていた。

「グラーフ・ツェッペリン」、「ヒンデンブルク」の完成・運航は博士なくしては実現しなかった。

ツェッペリン飛行船の時代を築く上で伯爵と博士の貢献は偉大なものがある。

しかし、殆どのツェッペリン飛行船を設計した設計主任のルードヴィッヒ・デューア博士、エヒターディンゲンの事故の後、国民から寄せられた義捐金で運航会社DELAGを設立しツェッペリン飛行船の礎を築いたアルフレッド・コルスマン、ダイムラーとエンジンの開発をしていたが息子カールと共に伯爵のためにマイバッハモーターを設立したヴィルヘルム・マイバッハなど多くの人達の努力と貢献を忘れてはならないと思う。

ツェッペリン伯爵の偉大な特性はいろいろ挙げられているが、その中で人材を見つけてそれに任せると言う点は大きい。

それと対照的にエッケナー博士は、自分の信念でその仕事に邁進している姿が目に浮かぶ様である。

そのため、ナチスのゲッベルスやゲーリングだけでなく、関係者にも場合によっては厳しい一面を見せることがあったようである。

3代にわたる合衆国大統領と会見し、1932年のワイマール共和国大統領選にヒットラーの対抗として推されたことのある博士は今、フリードリッヒスハーフェンの中央墓地に夫人と共に眠っている。

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没後54年目にフリードリッヒスハーフェンで墓参することが出来た。

[余談]
ライツ社はディジタルカメラの普及した今日でもライカ版フィルムとして広く使われている35mmダブルパーフォレーションフィルムを開発し、小型カメラの普及発展に寄与したメーカーとして知られている。
同社は切りの良い製造番号のライカカメラを著名人に寄贈しており、例えば555555号(1925年製造)はダライ・ラマに、666666号(1953年製造)はエドモンド・ヒラリー卿に、830000号(1956年製造)はネール首相に、919000号(1958年製造)はエリザベス女王に、980000号(1959年製造)はアイゼンハゥアー大統領に贈呈されている。
1928年に製造された10000号がエッケナー博士に寄贈され、彼はそれを携えて世界周航に臨んでいる。
Ⅰ型ライカ(モデルA)である。
ツェッペリン伯爵には同じ型の280号(1925年製造)が贈呈されている。

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