2008年07月27日

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ザムトの「ツェッペリンに捧げた我が生涯」

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いま、アルバート・ザムト著「ツェッペリンに捧げた我が人生」を読んでいる。

ザムトは1912年にツェッペリンに入社し、「LZ126:ZRⅢ(ロサンゼルス)」による世界で初めての北大西洋横断飛行を行い、レークハーストに残って数ヶ月にわたって米海軍の飛行船乗組員の指導を行った。

フリードリッヒスハーフェンに呼び戻されて「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」の乗組員となって、同船の主要な大飛行には殆ど乗船している。
彼は7人目のツェッペリン飛行船指令として、最後の そしてツェッペリンで唯一ヘリウム船「LZ130:グラーフ・ツェッペリン(Ⅱ)」の指揮をとった男であり、レークハーストのヒンデンブルクの惨事にも乗り合わせて負傷している。

ザムトを読む前にエッケナー博士の著書を読んだ。
エッケナー博士は、ただの船長ではなく硬式飛行船を建造するツェッペリン飛行船製造社と、それを運航するDELAGの社長を兼ねていたが、それ以上の存在であった。

第一次大戦後に発足したワイマール共和国の初代大統領エーベルト、第2代大統領ヒンデンブルク、それにカルビン・クーリッジ、ハーバート・フーバー、フランクリン D.ルーズベルトと3代にわたりアメリカ合衆国の大統領にも数回にわたって会談に迎えられている国家元首クラスの人物であった。
(現に3代目の大統領選ではヒットラーの対抗馬として有力な候補に挙げられていた。)

エッケナー博士の航海記には天候の様子や飛行船の状況については具体的に既述されているけれども、乗務員や乗客の人名は必要最小限に留められており、誰が何時何処でどんなことを言ったのかなどは述べられていない。

また、2度にわたるオリエント飛行については書いているものの、途中スペインでエンジントラブルを起こし、中止となった2度目の訪米飛行などについては触れられていない。

大物であるがゆえに、その発言や文書の影響を考慮してのことであろう。
例えば、グラーフ・ツェッペリンで世界一周飛行をしたときあれほど大騒ぎとなった東京・横浜についても『この2つの街の街路や広場で繰り広げられた興奮と熱狂の情景を記載するのは省略して、ただ、沢山の人の中にいたひとりの詩人が群衆の熱狂の様子を詩にしていたことを紹介するに留める。』とまことに素っ気ない。

これに較べてザムトは非常に具体的に既述している。
一例を挙げると、霞ヶ浦に着陸する際に突然、斜めから風を受け船尾が持ち上げられたとき、船首が地表に接触するのを避けるために緊急バラストを投下し、それが偶々歓迎のために集まっていたドイツ人グループの一婦人に掛かってずぶ濡れにしてしまった。

エッケナー博士が外交上の紛糾まで心配して恐る恐る詫びに行くと、その婦人が「なんて素晴らしいこと!これはボーデン湖の水なのです。」と機転を利かせてくれたので大笑いで決着がついたことや、歓迎式典の様子、さらには茶屋の接待で飯を食うとすぐにお代わりを盛るので困ったこと、檜の和式桶の熱い風呂や蚊帳を経験したことなど読みながら吹き出してしまうほど活き活きと記述されている。

読書や音楽鑑賞は良いものであるが「知的消費は退廃につながる」と言う意見にも一理あると思うので、ザムトをもうしばらく読み進んだら「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」の世界周航について書こうと思っている。

今まで我が国で出版されたものに記載されていない事項や、誤って伝えられていることを少しでも見直し、ツェッペリン伯爵、エッケナー博士、設計主任ルードヴィヒ・デューアやアルフレッド・コルスマンなどの人物像の一端でも紹介できればと思うからである。
(デューアもコルスマンも学位を取得しているが、当時博士といえばフーゴー・エッケナーを指すことになっていた。)

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写真はザムトの本に載っていたものである。
フリードリッヒスハーフェンの工場で撮影された「LZ126:ZRⅢ」回航の幹部乗組員で、左からアルバート・ザムト、レオ・フロイント、マックス・プルス、ハンス・フォン・シラー、フーゴー・エッケナー博士、アントン・ヴィッテマン、H.C.フレミング、ワルター・シェルツ、ハンス・ラデヴィヒ、ヴィリー・シュペック、ルートヴィヒ・マルクスの面々である。


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