2009年12月17日

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「グラーフ・ツェッペリン」世界周航時の乗船客(6)

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フリードリッヒスハーフェンから東京(霞ヶ浦)までは3人の日本人が乗っていた。
日本政府代表の藤吉直四郎海軍少佐と、大阪朝日新聞の特派員である北野吉内氏、それに大阪毎日新聞の特派員、圓地与四松氏である。

彼らが下船した霞ヶ浦からは藤吉少佐の後任、海軍少佐草鹿龍之助少佐と電通の白井同風特派員、それに急遽陸軍から乗船することになった陸軍の柴田信一少佐がロサンゼルスまで乗船した。

北野氏と圓地氏のキャビンは1号室であった。

圓地氏はベルリン駐在で、4月にツェッペリン社を訪れてエッケナー博士に会見しており7月末から大阪毎日に「ツェ伯号乗込みを前に」と題して取材記事を連載していた。
彼は寺田寅彦を通じて女流作家、圓地文子と再婚していた。乗船名簿には圓地博士と掲載されている。

国内で出版されたツェッペリン関係の文書では第一船長(レーマン)、第二船長(フレミング)、第三船長(フォン・シラー)などとする記載を見かけるが、これは上記連載のなかで圓地氏が使い始めたのが発端であろう。
レーマンも、フレミングも船長資格はあるが、世界周航の際の船長はフォン・シラーが務めている。

北野氏もフリードリッヒスハーフェン出発以来、船上で乗船記を書いて東京朝日新聞に掲載されているが、「外交官生活がいやになって弁護士となったリカード君」と書いているのはヨアヒム・リカルド氏のことであろうか?

彼は、出発早々にリーズ氏の持ち込んだグラモフォン蓄音機のジャズにあわせてチャールストンを踊ったとフランクフルター・ツァイトゥンクのガイセンヘイナー氏は書いている。
チャールストンとは、その頃流行った軽薄なダンスである。
脚をはね上げるあのステップは煉瓦を作る現場の労働者の動きを模したものと言われている。

写真は当時の新聞紙面に載った北野氏の写真である。

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