2011年08月24日

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A.コルスマン

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硬式飛行船の発明者、フェルディナンド・ツェッペリン伯爵はドイツの誇る偉大な人物であるが、私には人を見る眼とその人に大きな仕事を委ねることに特別な才能を持っていたように思える。

伯爵が見出し、事業を委ねた一人は、哲学・実験心理学で社会経済学者であったフーゴー・エッケナー博士である。
彼はフランクフルター・ツァイトゥンクの通信員として、最初の飛行船「LZ1」の論評を同紙に書き、伯爵の訪問を受けて館に招待された。
DELAGが設立されると、ドイツ各都市に飛行船事業への出資を勧誘する広報・渉外担当役員として招かれた。
その後、飛行船の操船・運航技術を習得し、名船長になった。
そればかりではない。
伯爵の後継者として第一次大戦後、連合軍によって製造も運航も禁止されていた硬式飛行船を甦らせ、名船「グラーフ・ツェッペリン」、「ヒンデンブルク」を生み出した、いわば再興の祖である。

もう一人は、「LZ1」を建造中にシュトットガルトの工業専門学校から呼んだルートヴィヒ・デューアである。
建造中の「LZ1」を見せて説明し第2番船以降、すべてのツェッペリン飛行船の設計主任を務めあげた。

そしてアルフレート・コルスマンも伯爵を大きく支えた経営者であった。
コルスマンはリューデンシャイデの工場でアルミニューム製造を行っていたカール・ベルクの娘婿である。
社内試験で好成績をおさめた「LZ4」が、軍部の立会のもとに行った24時間航行の途中で炎上したエヒターディンゲンの事故で全国から寄せられた600万マルクの義捐金を資金に飛行船製造有限会社を作り、飛行船運航会社DELAG( Deutsche Luftschiffahrt-Aktien-Gesellschaft )を設立したが、その経営者に伯爵が招聘したのがコルスマンであった。
硬式飛行船は何とか技術的に実用化の目途が付いたが、あてにした軍部も煮え切らず飛行船の受注がなければ飛行船製造有限会社は立ちゆかなかった。
そこで各都市に格納庫を建造させ、飛行船を運航させるために主要各都市を株主とするDELAGを設立しようとしたのである。
これが大成功をおさめ、「ドイチュラント」、「シュヴァーベン」、「ビクトリア・ルイゼ」、「ハンザ」、「ザクセン」などを建造し、これらの飛行船で陸海軍を含む操縦/運航要員の育成も出来たのである。
その直後に第一次大戦が始まり、陸海軍合わせて百隻以上のツェッペリン飛行船が建造されたが乗組員が居なければ前線に出すことも出来なかった。

そのほかにも航空機用エンジンを開発・供給してくれたマイバッハ親子など伯爵を取り巻く衛星のような人物は多い。

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