2013年01月18日

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プログラマになった頃

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船舶工学科を卒業し広島造船所に入社した翌年、長崎造船所からIBM1620が広島に移設された。
長崎にIBM7040が導入されたがリース契約の残期間、広島で使用することになったのである。

当時、コンピュータはすべてリースであった。
我々は、売ってしまうとソフトもハードも技術的に明らかになることを警戒して、白衣の技術者が常駐しているのだと思った。

これは大きな買いかぶりであった。
商品として売り渡すことの出来ない程、完全看護で面倒を見なければならなかったのである。

ともかく、それを機に長崎研究所の計装研究課からプログラマが広島研究所に転勤して、第2計装研究課電子計算係が出来た。
課長は金田彰夫氏、係長は成富 義氏であった。

造船設計部基本設計課に配属になったが、すぐに役に立つわけでもなくむしろ指導員はじめ係の人たちに面倒を掛けていた。
この頃、本社にはIBM7044、系列の原子力会社にはIBM7090があり、これを使うためには本社に出張せねばならなかったが、コンピュータ利用者の幅を広げるためにオープンプログラマ制が採られていた。
事務系も技術系も、研究所も設計も現場でも業務に関することであれば誰でもコーディングシートやデータシートを付けて計算依頼することが出来た(但し、往復と入力するためのカードパンチを行い、待ち行列に積まれ、結果のプリントアウトと共に手許に戻るには一週間近いターンアラウンドタイムを要した)。

まだ、当時のコンピュータはオペレーティングシステムには程遠いバッチ処理で、ユーザーとしては全くのブラックボックスであった。

誰もまわりに教えてくれる人は居ない。設計部の書庫を探してFORTRANを四則演算から独習した。
そのうち、FORTRANⅡに仕様がアップした。
判らぬままコーディングしていたが、そのうち演算の仕組みが知りたくなった。

そうして何年かやっているうちにミニコンピュータというものが出来、企業で買い取れるようになった。
DEC社のPDPシリーズで、爆発的に売れたのが12ビットマシンPDP8シリーズである。
その後、国内の電機メーカーの多くがミニコンピュータを発売した。
東芝、日立、日電、沖電気、三菱電機などである。

DEC社からは16ビットマシンPDP11が発表された。

参考になる本もなかったその頃見つけたのがエックハウス著、中西正和訳の「ミニコンピュータシステム入門」であった。

演算装置、制御装置、内部記憶装置、入力装置、出力装置などの構成や、ALU、IR、MAR、MDRなどCPUの仕組みをこれで理解しようと努力した。

のちに入力装置からアナログデータを取り込みむ数行のアセンブリ言語のサブルーチンを書き、その値をメインプログラムに引き渡すことが出来たときの感激は忘れられない。

「ミニコンピュータ入門」が改訂されるとむさぼるように読んだものである。

その後FORTRANは、FORTRANⅣに改訂された。

FORTRANでも所要メモリを限定したり、実行時間を最適化するように工夫したものである。

その後、BASIC、C、JAVAなどでコーディングするようになったが、未だにオブジェクト指向言語には馴染めない。
勝手に最適化などせずに指示されたとおりにやれと言いたくなるのである。


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