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海水浴場

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2009年淡水古蹟博物館4周年館慶特別展示に関連して発行された「滬道日安」によると「1923年、天然の海浜に開かれた海水浴場は、淡水街の沙崙にあり、駅から3.3キロの距離だった。当時の海水浴場は街役場が経営しており、販売部、ホテル、旅館、汽車とバスの往復割引切符などの方法で人々を集めていた。」とある。

さらに「当時は毎年の開放的期間が6月から9月までで、台湾総督府鉄道部はこの期間内に、2割引の優待往復切符を売り出し、また列車を増発した。駅から海水浴場まではバスがあり、観光客の便を図っていた。そのため毎年この時期には都会から多くの観光客を集め、青年学生たちは各種の活動を行い、自から「水泳隊」を組織して水泳訓練をしていた。台湾鳥瞰図などの古地図上では、明らかに1930年代の時期、台湾島内に多くの海水浴場があったことが見て取れる。たとえば基隆大沙湾、八里、澳底、蘇澳、竹圍、竹南、通宵、苑裡、大安港、大甲、安平、西子湾、旗後などである。」と解説が続く。

税関吏を中心として地方官吏、台湾銀行、商社員、地方の有力者によって組織された「五十会倶楽部」は、台湾で初めてのゴルフ場や公會堂を開設したことは知っていたが海水浴場の開設にも関わっていたのである。

海水浴場「和樂園」の経営者、浅野タツは淡水公會堂の嘱託であった原田ユクの伯母であった。

私が広島市営アパートに住んでいたとき娘は未就学の幼女であった。
同じアパートに住んでいた女の子が娘をとても可愛がってくれ、ときどきそこにお邪魔して遊んでいた。

そこにしっかりしたお祖母さんが居たが、聞くところによると台湾で温泉宿を経営していたという。
温泉は冬場が忙しく、夏は比較的暇なので海水浴場「和樂園」に逗留していたというのである。
冬には海水浴場の浅野タツさんが温泉宿に行っていたという。

当時は台湾に行ける日が来るなど考えられなかったが、今となってはもっと話を聞いておけばよかったと思っている。

当時の話を聞いて不思議だったことがある。
淡水街で何かの式典があると、海水浴場の浅野タツさんや公會堂の原田ユクさんが招待されていたという話である。

海水浴場も公會堂も街役場が経営主体で、その経営を二人に委託していたのであれば納得できる。

戦時中は爆撃や銃撃の演習場になっていたそうで、戦後は荒れ果てていたという。

最近、淡水の観光スポットになっている漁人碼頭の一角になっているのであろう。

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2010年11月16日 15:40に投稿されたエントリーのページです。

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