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淡水水上機基地

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大戦末期になると淡水にも実戦部隊が移動してきた。

フィリピン方面を転戦していた第634海軍航空隊は水上偵察機の航空隊に改編され(第一航空艦隊)、キャビテ湾カナカオ基地から高雄南部の東港に引き上げてきた。
東港は戦前から飛行艇や水上機の基地であった。

そして1945(昭和20)年3月中旬に淡水基地に移動してきた。
水上偵察機24機(常用18機、補用6機)を擁し、1月末の時点で司令、飛行隊長、搭乗員、地上員など250名の部隊であったので淡水基地だけでは狭く、士林にも基地が設けられたという。

3月27日には本隊を淡水基地に残し、補充および錬成は福岡県玄海基地に置いていたようである。

3月29日には、2次にわたって沖縄周辺の敵艦船に攻撃をかけている。

この日 戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦7を発見し攻撃をかけた。
一番機(操縦:宮本平次郎大尉、偵察:中島 宏 上飛曹)は戦艦1隻に60キロ爆弾を2発命中させている。

宮本大尉機は3月31日、4月4日、5日、7日、20日、28日、30日、5月20日、23日にも一番機として出撃している。

同隊は奄美大島の古仁屋基地を経て、6月11日に鹿児島の桜島基地に移動しているが、6月26日の沖縄周辺敵艦船攻撃に出撃した宮本大尉は撃墜され戦死した。
海兵71期であった(偵察第301飛行隊)。

大きな双浮舟をつけた水上偵察機が爆弾を搭載して敵艦船に爆撃を仕掛けるなど一般的に考えられることではないので概要を述べる。

この水上偵察機「瑞雲」(E16A)は14試特殊水上偵察機として、愛知航空機に1社特命で試作指示が出され、開発された。

1940(昭和15)年2月7日、海軍航空本部から愛知に対し「艦載に適し、急降下爆撃の実施容易なる、高性能(速力259kt<463km/h>)の水上爆撃機」の要望があり、愛知でA10の名の下に調査研究が開始された。

開発・試験・審査の上、1943(昭和18)年8月に「瑞雲11型」として制式採用となった。
愛知航空機で197機、日本飛行機で59機が生産された。

航空戦艦(戦艦の後甲板に飛行甲板を設けたもの)伊勢・日向や、横須賀・大津などの航空隊にも配備されていた。

乗務員は操縦と偵察の2名で、武装は20mm固定機関砲、13mm旋回銃、爆弾は250kg×1、または60kg×2であった。

淡水小学校の学童が北投の善光寺に疎開したのは1945(昭和20)年5月のことであるが、私はこの水上爆撃機とも言われた高速水上偵察機が配備されていたことは今日まで知らなかった。

戦史は「旧軍戦史雑想ノート(http://pico32.web.fc2.com/)に拠った。

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2011年05月03日 13:52に投稿されたエントリーのページです。

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