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三芝国民学校

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父、廣川研一は1937(昭和12)年9月30日で判任文官に任官され、淡水公学校の訓導となった。
1941(昭和16)年4月1日付けで「淡水東国民学校」と校名が変更になり、1943(昭和18)年3月25日で三芝国民学校訓導に補せられた。

三芝国民学校は1911年に老梅公学校の小基隆分校として設立され、翌年小基隆公学校として独立し、老梅公学校はその分校となった。
その翌年には北新庄分校もできた。
1921年には老梅分校も北新庄分校も公学校として独立した。
1941年には三芝国民学校と校名を改めている。

1944(昭和19)年5月5日に三芝国民学校の教頭に補せられ、同年6月12日に応召し、台湾歩兵第四部隊(蓬19702部隊)に配属になった。
1945年に終戦となり、召集解除となり部隊は9月1日に現地解散となった。
この間、1944年9月30日には給六級俸、1945年9月30日には給五級俸とある。

いつまで給与を貰っていたのかと思っていたら、昨年発行された三芝国民小學百年誌の巻末に歴任教職員名簿が添付されていた。
それによると、父は1943年3月31日に赴任し、1945年12月31日に離職したことになっている。
赴任日付けが数日異なるが百年誌に掲載されているだけでなく謄本が創立百年を記念して新設された文物館に収められていたのには驚いた。

前線に行っている間も家族に給与が支給され、応召解除になったあとも年末まで支給されていたことになる。

その後は淡水の海運会社の倉庫番や引っ越しの手伝いなど賃仕事をしていたらしい。

写真は現在の三芝国小である。


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2011年06月29日 10:18に投稿されたエントリーのページです。

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