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淡水から広島までの一千浬(5)

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1943(昭和18)年の春に、父は三芝国民学校に転勤になった。
内示を受けたとき、よほど淡水を離れたくなかったのであろう。先輩教員と夜中に「○○のバカヤロウ!」と叫んだと言っていたことがあるそうだ。

三芝国民学校の前身は1910年に老梅公学校の小基隆分校として発足した。
その翌年に小基隆公学校として独立し、逆に老梅公学校がその分校となった。
当時、相当な田舎で密度も疎らであったこの地区の人口が急速に増加して学童が増えたためであろうか?(その後、10年近く後に老梅分校は公学校として独立し、いまも老梅国民小學となっている)

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1941(昭和16)年に小基隆公学校は、三芝国民学校と改称された。

龍目井など、淡水街に住んでいた頃の写真は、ほかにも色々あるが、三芝(小基隆)に住んでいた頃の写真はない。

当時、写真は写真館で撮って貰うもので、普通の人がカメラを持ち、DPE店が出来るようになったのは戦後のことである。

三芝のような田舎には写真館のようなものはなく当時の面影を残すものは皆無である。

国民学校やその傍の教職員宿舎の周りは田圃で、蛙が鳴いていたり、季節には田植えした稲が判るほど、多数の蛍が乱舞していたり、それは長閑なものであった。

ここで一緒に勤めていた山城安次郎氏は沖縄で新聞かTVの仕事をしていたらしいが、淡水会(1988年:第22回於広島?)で挨拶したことがある。
私は父と、山城氏は娘さんと一緒に来ていた。

高鍬さんという人とも三芝で一緒に同僚であった。
母の話によると、タイタニックか何かの海難事件に関して、救難信号SOSの電信発信を、高鍬夫人が「エー・ソー・エー・ソー」と言っていたそうである。

近くに柑橘類の皮を砂糖で煮るミッセン工場や、パン工場もあり、時間になると良い匂いが漂ってきた。

ここで憶えているのは、母が稲刈りの勤労奉仕に出て、鎌を踏んで怪我をしたことくらいである。

3つくらいで、悪戯もしていた。
母が焼いたケーキを、近くに住む父の同僚の家に届けるように言われて、その盆を奉公人の押しているポンプの吐出口に差し出して水を掛けたものを届けたらしい。
確か、陳スイロ(漢字不詳)と言った。
届けられた家から、一つ二つ年上の女の子が、私が帰るより早く「小母さん、あのケーキ、初めから濡れていたんですか?」と駈けてきた。

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これは父が赴任した頃の三芝国民学校の写真であるが、教師と父兄たちであろう。

父は1944(昭和19)年の5月に教頭になり、6月に応召で台南の部隊に入営した。
給与は三芝国民学校から支給されていたはずで、その後も三芝に住んでいた筈であるが戦時末期には淡水で、空襲警報の鳴る度に防空頭巾を被り、郵便局などの防空壕に逃げ込んでいた。

いつ頃、淡水に戻ったのか記憶にない。

年が明けたので、一昨年になるがボストンの博士と淡水を訪れたとき、三芝に連れて行って貰った。

創立百周年を記念して作られた文物館に、当時の資料が整理保存されていることに感嘆した。

そして、三芝の街が大きくなっていることにも驚いた。


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2012年01月09日 13:12に投稿されたエントリーのページです。

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