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淡水から広島までの一千浬(12)

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台北駅では待たされて、有蓋貨車で基隆駅まで運ばれた。

通貨も貴金属も持って帰ることは許されなかったが、これらを荷物に中に隠して持ち込んだ者が見つかってひどい仕打ちを受けたなどと言うデマが流れていた。
おそらく、そういう筋から意図して流されたデマではないかと思う。

基隆に着いたら、港湾用鉄道引き込み線のレールを枕に皆、横になっていた。
貨物列車の日陰である。私はこの列車が動き出すことはないのか不安を感じていた。

基隆でも2〜3日、留められたから保税上屋のようなところにいたのであろう。

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基隆は淡水に代わって台湾北部の主要港となっていた。

鉄道の駅は基隆港に隣接して設けられ、そこから臨海鉄道のレールが何本も敷設されていた。

戦前も基隆から門司経由神戸への連絡船は対岸の客船埠頭に接舷していたが、艦艇や沖縄への連絡船は鉄道の駅に隣接する臨海線近くの保税上屋近くに接舷していたのではないかと思う。

1946年にアメリカは、引き揚げなどに使用するためにリバティ船を100隻、LST100隻ほかの船舶を日本政府に貸与した。

基隆に集められた引揚者は、順次入港する引揚船に乗せられたが、リバティ船の船倉に乗せられた人が多かった。

米軍は戦時中、大陸や南方からの物資の流通を阻止する目的で20000個以上のパラシュート付き機雷を九州沿岸、南西諸島、瀬戸内海などに航空機で敷設した。
終戦になって、先ずやらなければならなかったことは、この機雷原の一部を掃海して航行可能な海面を確保することであった。
このため、旧海軍の掃海艇や掃海母艦のほか、海防艦や駆逐艦まで動員して掃海作業に従事させた。
そして必要な海面の一部が確保されると、それらの残存艦艇を改装し、外地に展開していた陸海軍将兵の復員と、外地在住邦人の引き揚げに転用した。

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我々の便乗した海防艦34号は、3月21日に基隆を出航し、23日に鹿児島港に入港したが、ほぼ同時期に基隆から引き揚げた人の中には、リバティ船に乗せられて内地に入港するまで一週間くらい航行したと言う人も居た。
おそらく、機雷原を避けて、水深の深い太平洋か、大陸に沿って航行したからであろうと思う。

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この図は兵装を撤去した海防艦に便乗者用区画を設けたイメージであるが、瀬戸内海のような内水面なら可能でもあろうが、春先の東シナ海を基隆から九州まで、こんな小艇で航走すると暴露甲板に固縛した搭載物も吹き飛んでしまう。

もとより艇体内部に剰余空間等はないので、武装解除で撤去された弾薬室や爆雷庫に、便乗者が横になれる程度の棚を設けた船尾区画に入れられた。

基隆の港外に出たときに、父が艙口から外を覗かせ「あれが台湾だ。よく見ておきなさい。」と言った。

外海に出ると小艇は木の葉のように翻弄された。

乗組員に聞いても、何処に入港するのか知らなかった。

ときどき、握り飯のようなものを乗組員が持ってきたが、皆 ひどい船酔いで手を出す者は居なかった。
父が、幾度となく汚物のバケツを波で洗われている甲板に棄てに行っていた。

二晩、この地獄のような状態で航行し、接岸したところは桜島が噴煙を上げている錦江湾の鹿児島桟橋であった。

桟橋で夏ミカンを立ち売りしているのがひどく高くて内地の風あたりの強さを感じたと父はメモしている。

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2012年01月16日 11:01に投稿されたエントリーのページです。

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