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淡水から広島までの一千浬(14)

Hiroshima_aerial_view.jpg

引き揚げて、取り敢えず佐賀の伯父達がいた父の生家に身を寄せたのだが、父はいくら兄弟でも4人も連れて落ち着けなかったと記している。

衣食住すべて乏しいときで、外地に出ていた者が続々引き揚げてくるので、すべてに難儀で片身の狭い思いをしたと没後に見つけたノートに書いていた。

郷里で教員に戻れという伯父たちの言葉を振り切ってどこかに出ようと決心したのである。

居候で食うために、森林伐採の監督、玩具商の店員、そして近郊のお祭りの時は道端に座って出店もやったと書いているが、私も覚えている。
唐津神社の祭礼のときのことである。
隣に屋台を出していた香具師が盥に入れていた大山椒魚が溝に逃げ出した。

その年の暮、母の叔父が広島市役所に居て、誘われて焼け野が原の広島に出た。

私たち家族は岩国、人絹町の大叔父の家の片隅に仮住まいして父は列車で広島に通い、水道局に臨時で勤めたが、翌年1月、比治山の南麓、比治山橋近くの水道工事店に入った。

私は岩国東小学校に転校したが、肩から下げる鞄は、浜崎小学校に入るとき、母が縫ってくれていたが学期中半の転校で、教科書も無かった。
父が、クラスメートに教科書を借りてこいと言って、毎日筋肉労働のあと1時間掛けて列車で帰ってから、大学ノートに書き写してくれた。
國語も、算数も、理科も、社会も・・・。

父は現場で、ツルハシを振るいスコップで地面を掘るなど工員として働くほか、雑用も事務も、税務署の査察対応も何でもやった。

年が変わって、社長夫妻も住む事務所兼用の二階屋に家族で移転した。

私は広島市立皆実小学校に転校となった。
父はまた、全教科の教材を書き写してくれた。
担任はたしか、木下先生という女教師であった。

転校になって間もなく、学校から引率されて映画館に映画を見に行ったことがある。
映画が終わって現地解散となり、どうやって帰宅しようかと思った。
バス停2、3区間の距離であった。
まだ不法建築が建っていたり、空き地を利用して野菜や芋を植えていたところを他の学童の帰る方向について何とか帰宅できた。

事務所の裏の薄暗い区画に住んでいた。
私はやっと7歳になるころであったのであまり感じなかったが、両親は気兼ねしていたことであろうと思う。
厠のドアもなかったのである。風呂など無論ない。

母も気兼ねして掃除など雑用をやっていた。

そこで一年くらい住んでいた。
近くに、連れだって登校する友達も出来た。

広島市の中心部は原子爆弾と、その引き起こした火災で焼け野原のなっていたが、公園や陸軍墓地のあった比治山の裏には被災を免れた地区もあった。

広島駅から国道沿いに東の方向の西蟹屋町に社長の所有する古い民家があったが、放置されていたので雨が降ると家の中でも傘を差さなければならない程であった。

そこを何とか手を入れて、部分的に住めるようにして、1948(昭和23)年5月に引っ越した。

私は、またしても転校で、国道沿いの荒神小学校に通った。

まだ配給制度ではあったが、食糧事情は幾分改善されていたようで、パンの委託加工という店があった。
小麦粉を持って行くとそれに見合う分量のパンを売ってくれた。
ただし、その頃は増量のため轢いたトウモロコシなどを混ぜたものも多く、カウンタでそれを7割とかに査定していたと思う。

そこで8月に末の妹が生まれた。

しかし、父が水道工事店を辞めることになり、そこを出なくてはならなくなった。
筋肉労働はしていても謹厳実直な父と戦後、成り上がりの土建屋の親爺と合うわけがなかった。

父も途方に暮れていたと思うが、1人で大八車を曳いて水道工事の下請けをやっていた上岡氏が「うちに来い」と言ってくれた。
今は平和公園になっている中島に自力で建てた不法建築で、3畳ほどの空間と、やや広いスペースがあったが、自分たちが狭い方に入って、うちの家族を受け入れてくれた。

nakajima_1.jpg

よくこんな写真が残っていたと思う。
うしろに見えるバラックに寄寓していた。
いまは鳩の遊ぶ平和公園になっている中島(戦前の中島本町か、その南の材木町か、その本川沿いの元柳町であった辺り)である。
中島本町は、元安橋を経て本通り商店街が続いており、戦前は中島地区が広島市内で一番賑やかな場所であった。
まわりには飴のように曲がったガラス瓶や、熱線で焼けた瓦などが沢山転がっており、誰も拾うものは居なかった。

中島の不法建築で1949年の正月を迎えたが、父が自転車でどこからか買ってきた濁酒だか、上澄みだかを落として瓶を割ってしまったことがあった。

メモを読み返してみると1948年の11月から翌年の早春までの筈であるが、写真の父は半袖、半ズボンである。よく判らない。

私は、中島小学校に転校した。
8歳のことで、しかも短期間であり顔も名前も覚えていないが、後に就職してバス通勤していたころ、おそらくその時のクラスメートであったと思う顔に逢ったことがある。相手も何だかそんな眼で見ていたような気がする。

コメント (1)

突然、コメントをお送りする失礼をお許しくださいませ。

広島平和記念資料館(通称、原爆資料館)啓発課の菊楽と申します。

昭和20年代の(資料館開館前の)平和公園について、調査しておりまして、キャプテン様のブログを拝読しました。昔の公園について、ご教示いただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします。(おじぎ)

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2012年01月18日 10:14に投稿されたエントリーのページです。

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