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淡水から広島までの一千浬(32)

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卒業パーティは平和公園の平和記念資料館の東館で行った。
東館には講演会などを行うホールの他、大小のブースがあり当時は市に申し込めば利用できた。

テーブルを壁際に寄せてカウンターを造りウィスキー、ブランディ、ジンなども持ち込んだ。

カセットテープレコーダーは開発されたばかりの時期であり、リンガフォンなどもオープンリールのテープレコーダーで再生していた時代なので、音楽はレコードプレーヤーを持ち込んだ。

しかし、ダンスは知らなかったので飲んでばかりで、ジンをコップで飲んだりしていたので酔ってしまった。

誰かが家まで連れて帰ってくれたらしい。

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卒業式も平和公園の公会堂で行われた。
広島大学には卒業式の出来るような講堂はなかった。

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このとき初めて作って貰ったスーツである。
手に卒業証書の紙筒を持っている。
式には両親が来てくれて、このあと紙屋町地下のレストランで一緒にランチを食べた。

基町地区は再開発のために木造住宅を撤去して公営のアパートが建ち始めていた。
卒業した年の春に、家族は父が勤めて居た会社の2階を住居に改装して皆実町に引っ越しをした。

基町東区南鯉城住宅19号に一人で住んだ。
家賃は月千円であったと憶えている。

就職の決まった三菱造船からは社内誌が郵送されていたが、入社までに通信教育だの、レポート提出だのはなく、至極のんびりしたものであった。

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4月に入社式に上京した。
大学卒の男子は本社採用で、高卒男子と短大卒の女子は事業所採用であった。

東京では10日前後、代々木の私学会館に宿泊して本社に通い、社長や役員の講話を聞いた。各事業部や事業所の歴史や現況などの話であったが、明るいうちに開放され、四谷や原宿を散策したりしていた。

宿舎の部屋割りは長船班101名、広船班91名となっていた。
三菱造船では、事業所のことを「場所」と呼び、長崎造船所の略称が長船、広島造船所の略称が広船である。

戦後の財閥解体で三菱重工業は 東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に分割されたが、当時はそれぞれ三菱日本重工業、新三菱重工業、三菱造船に社名変更していたが、三菱造船には長崎造船所、広島造船所と実習に行った下関造船所があった。
そして、本社における集合教育が終わる頃に、配属事業所の発表があった。

広島大学船舶工学科からは5名入社したが、船岡が長崎造船所、私と北川が広島造船所、江崎と加藤が下関造船所に配属された。

その前年までは長崎配属組は広島で、広島配属組は長崎で約1ヶ月の実習があったようであるが我々の年は、途中で一泊の見学旅行になっていた。

この1ヶ月の実習期間で見初めたのか見初められたのか、長崎から広島に嫁いできた人は沢山居たが、逆は皆無であったと聞いたことがある。
長崎は余所者にすぐ打ち解けるところがあるが、そんなことが影響しているのかも知れない。

本社の集合教育では自宅から通っていたのが2〜30名居たが、事業所での教育は全寮制で私も三菱観音寮に入った。
和室で4人部屋に3人棲まいであった。

私は毎週、洗濯物を持って家に帰り、自分で洗濯することはなかった。
後で同室であった者に聞くと、掃除の仕方に注文を付けたことがあるらしい。

応募要項には月収2万1千円となっていたが、初任給を貰ってみると2万1百円であった。
勤労部の説明では、春闘が決着していないのでベースアップが遅れたらしい。
7300円であった本給が、7月頃7600円に改訂された。
複雑な給与体系で、よく判らなかった。

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2012年02月04日 11:43に投稿されたエントリーのページです。

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