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淡水から広島までの一千浬(35)

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1963(昭和38)年4月に三菱造船に入社し、7月に広島造船所に配属になった。

当時は、造船ブームを控えていた時期で、設計も現場も月に数十時間の時間外勤務が定常化されていた時期であった。
しかし高卒、学卒の新入社員は、一年間仕事をさせてはならず、まして残業などさせるとそこの部長が勤労課長から注意を受けるほど大事にされていた。
(しかし当時、女子の新卒は事業所採用で、しかも女子短大が対象とされていた。大学卒の女子は短大卒と同じ条件で採用されることがあった。その頃は、女の子は結婚したら辞めるという見方が多く、結婚相手を見つける為などと考えるものも居たのではあるまいか?、従って、学卒男子の新入社員を「見習甲」、高卒男子を「見習乙」と呼び、女子は「雇」、「雇員」と言っていた。まだ、職員、工員の身分制の頃である。)

7月に配属されると、指導員と相談して研究テーマを決め、3月にレポートを書き発表するのである。

それがパスすると、技術系の「見習甲」は「技師」に、事務系は「事務」に、技術系の「見習乙」は「技手」に、事務系は「書記」という身分になった。

技師になったばかりの1964(昭和39)年に、国内便の航空機で東京に出張を命じられた。
広島造船所には修繕用船渠がなかったが、広島の東郊、坂町にあった旧陸軍の船渠を財務局から借用運用していた。
そこに入渠したリバティ船のディープタンクの隔壁が錆び落ちており、図面上4区画であったタンクを1区画に変更することになった。
区画割を変更することは船体の改造に当たるので、船級協会の承認が必要であった。
それで、通船で鯛尾船渠にゆき、油まみれになって船内を調査し、皆が退社した設計部に戻ってフリーハンドで区画変更の図面を書いた。
机の上には国内便航空機のチケットがあり、それで本社の営業経由、ABS(アメリカ船級協会)の責任者に逢って船体改造の承認を取ってこいという。
その船は翌日出港させるから急ぐのである。

朝方、着替えのためにタクシーを呼んで自宅に帰ったが、作業服がドロドロで座席に座れないので大きな図面を何枚か敷いてそこに腰を掛けた。
タクシーに手持ちがないので運賃を借りるというと「オーダーは?」と言う。
社内では人件費も経費も全てオーダーで処理していた。
街のタクシーもオーダーが使えるのかと思ったが、その後長崎造船所に出張に行って、飲み屋の支払いまでオーダーで処理できたのには驚いた。
何桁かの数字を口頭で言うだけである。
長崎は企業城下町だという意味が判った。

このときは本社修繕船部の長島氏がABSに付き合ってくれた。
ABSの責任者には錆びた鋼板の残り厚さを測れと言われた。
長島氏には昼をご馳走になり、初めてギネスを飲んだと思う。

承認さえ取れれば・・と言うのか帰りは呉線まわりの特急の切符があてがわれた。呉線沿線を走っているとき鯛尾ドックを出渠するリバティ船が見えた。
鋼板の厚みを測るように言われていたがどうしようもない。

リバティ船とは、第一次大戦で欧州に軍隊を送るときにイギリスから船を借りなければならなかった事例により大量建造された戦時標準船である。
合衆国における造船の大立て者ヘンリーJ.カイザーを中心とする造船企業が2000隻以上建造した1万トン級で、電気溶接を広範に用いることにより短期間で量産したが、航行中に船体破断などの事故が続いた。
主船体の電気溶接による脆性破壊であったことが解明され、我々が入社した頃は部分的に鋲接接合部が残っていたが、数年で全溶接構造に移行した、工学の失敗を教訓に活かした事例として有名になった。


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2012年02月07日 10:58に投稿されたエントリーのページです。

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