« 戦前の家並みがそのまま | メイン | 伊藤 潔著「台湾」 »

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

父のこと(2:佐賀師範を卒業して)

Nijinomatsubara_1.jpg

佐賀県立唐津中学校を卒業した1929(昭和4)年の春、佐賀県師範学校の本科に入学し、翌年5月に小学校本科正教員の免許を受け、佐賀県東松浦郡横田尋常小学校の訓導として赴任した。

横田は浜崎に隣接し、鏡山麓の集落で、浜崎から通勤できる距離である。
横田尋常小学校は1935(昭和10)年に浜崎尋常小学校と合併し、9月30日付けで父は必然的に浜崎尋常/高等小学校訓導に補せられた。

私が1946(昭和21)年4月に浜崎小学校に入学したときの担任、宮崎 操先生はこの頃の父の教え子であった。

翌年3月31日付けで東松浦郡湊尋常/高等学校訓導に転勤辞令を受けた。

湊というのは今は唐津市に合併されたが、唐津から豊臣秀吉が朝鮮へ出陣する際に出城を構えた名護屋や、海産物の出店で知られている呼子の方へつながる海岸線に沿った港町で、神集島への渡船場のような辺鄙な村であった。

唐津湾の西岸に沿って10キロメートルほど行くと、湾口に神集島という小さな島がある。
陸から見た島の形は台形で、神功皇后が新羅出兵の際、ここで儀式が行われたという伝説があり、万葉の歌碑もある。
第2種漁港があり、湊港からは10分の距離である。

その手前の集落が湊で、ここから海岸は玄界灘に直面する。
そこには立神岩という奇岩が立っており、この辺り一帯はサーフボード乗りのメッカのようになっている。

そこからさらに先に進むと2、3キロメートル先に波で浸食された七ツ釜があり、観光船で海から入ることが出来る。
海岸線をさらに進むと観光客の多い呼子の漁村がある。
先端まで行くと海中展望塔もある。
この辺りで、スルメイカやサザエを焼いて貰って喰うと美味い。

そこから漁港を越えて西に行くと名護屋城趾のある鎮西町に入る。
「太閤が睨みし海の霞かな。月斗」と刻まれた石碑もあり、周辺には徳川家康、伊達政宗、毛利秀頼、黒田長政、加藤清正らが陣を構えていた陣跡が残されている。

そこからさらに西に行くと玄海町の玄海原子力発電所がある。

当時の湊は田舎の分教場のような小学校であったに違いない。
そこに一年ほど勤務したあと、台北州庁に勤めていた吉森八郎氏を頼って門司港から渡台した。

祖父だけでなく伯父も伯母も教員をしていたのであるが、次男であることから何れは何処かに出なくてはならないと考えていたのであろう。
当時、父は25歳であった。


About

2012年04月28日 10:27に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「戦前の家並みがそのまま」です。

次の投稿は「伊藤 潔著「台湾」」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。