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記憶している飛行艇と水上機

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1936年に台北に松山飛行場が建設され、淡水には1941年に水上機用の航空設備が設けられたと「滬道日安」には記してある。
淡水古蹟博物館開設4周年を記念して編集された日本特別展示会用に編集された資料である。
同誌によれば水上機場は民間の航空会社が使用しており、単葉双発の水上機が横浜から飛来して、淡水で給油したあとサイゴン、バンコクに向かったこともあるという。

しかし、大日本航空の川西飛行艇「綾波」がパラオから淡水に飛来したのは1940年11月であったから、その当時には燃料補給や整備が出来るようになっていた筈である。
私は当時、生後9ヶ月であったので知るよしもない。

憶えているのは零式水上観測機が毎日のように発着していたことと、海軍が横浜からマニラや南洋諸島に定期運航していた97式大型飛行艇である。
この定期便は2週間に一往復していたようである。

零式水上観測機は、艦隊同士の遠距離砲撃戦で上空から弾着を観測し、無線で報告するために開発された複葉単浮舟機で、乗務員は操縦要員と偵察要員の二名が風防のみの暴露座席に乗っている。
前線での任務に備えて、偵察要員用の旋回式7.7ミリ機銃のほかに、機首に固定式7.7ミリ機銃二丁が装備されていた。
複葉で旋回性能がよいので、零観だけで敵機を数機撃墜したものも居た。
しかし、開戦後しばらくは気象観測と定期的な哨戒が任務であったのだろう。

飛行艇は、郵便局の近くのブイに繋留し、郵嚢や便乗者をランチで上陸させていたので河岸から見ていたこともある。

零観のほうは淡水駅から紅樹林に寄った鼻頭村にあった黄東茂氏の豪邸を移転されたあとに作られた水上機基地に戻るのであまり近くで見たことはなかった。

しかし、一度だけ郵便局の裏で間近にみたことがある。
着水に失敗して転覆した零観を裸になった水兵が潜ってロープを掛けて引き上げている処であった。

戦況が切迫してくると、急降下爆撃の出来る水上偵察機「瑞雲」の部隊が淡水に来たと戦後になって知った。

常用18機、捕用6機を擁し、司令以下、飛行長、搭乗員、地上員など250名もの部隊で淡水基地だけでなく士林にも基地が設けられたという。

「瑞雲」は機種の区別は水上偵察機であったが、水上爆撃機とも呼ばれて、南西諸島などに来る敵艦に60キロ爆弾を命中させるなど奮戦している。


コメント (1)

曾令毅:

「滬道日安」の記事及び写真が間違っています。この写真は1929年の基隆です。私の考証:http://www.5819375.idv.tw/phpbb3/viewtopic.php?f=5&t=19880

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2013年04月04日 13:00に投稿されたエントリーのページです。

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