2005年05月05日

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(飛行艇の時代:1)飛行艇

Sikolsky_S-42half.jpg
水面から飛び立ち、水面に着水する水上機は、ライト兄弟のフライヤー1号の飛行から6年あまり後の1910年3月28日にマルセイユ近郊の湖で初めて離水した。
昆虫記の著者と同姓同名のアンリ・ファーブルが製作した「イドラヴィオン」号である。
同機は、前翼式単葉機で、高度2mながら約6kmを飛び、水上機による世界初の飛行と認められている。

翌年1月26日には米国のグレン・カーチスが、陸上機をもとに設計した実用水上機の離着水に成功した。
彼はその一ヶ月後の2月23日に、水上機に引上式の車輪をつけて水陸両用機のデモンストレーションを行っている。

1912年1月10日には飛行機の胴体を水密構造とし、浮力を持たせた飛行艇の初飛行にも成功した。

それから間もない1914年1月1日にフロリダ州のタンパからタンパ湾の対岸セントピータースバーグまで30kmを結ぶ旅客定期輸送が開始された。

世界初の定期旅客輸送は、陸上機ではなく飛行艇によって実現されたのである。

この事業を企画したのはポール・F・ファンズラーという。
フロリダ州の議員や投資家を説得して前年12月4日に「セントピーターズバーグ・タンパ・エアボートライン」を設立した。
ミズーリ州セントルイスの飛行機設計士トーマス・ベノイストから複葉単発複座の小型飛行艇を4000ドルで購入した。「ベノイスト14」飛行艇である。
パイロットには、トニー・ジェイナスを雇って翌年1月1日から定期運航を開始した。

セントピータズバーグのヨットハーバーとタンパのヒルズボロ川までを1日2往復程度運航した。
料金は体重100ポンド(約45kg)までなら5ドル、1ポンド超過するごとに5%増しと設定されていた。

営業開始3ヶ月で1200人以上の乗客を輸送し、その間の欠航は8日であったという。

しかし、設定された料金があまりに安かったことと、メキシコ戦争の激化で旅行客が大幅に減少し、4ヶ月で運航中止に追い込まれた。

飛行機は搭載重量に応じて全備重量が増加し、巡航速度の上昇にしたがって離着陸速度も上がる。
従って、各地域に長大な滑走路を有する大型空港が整備されるまでは飛行艇を含む水上機が活躍していた。

機体にフロートをつければ重量と空気抵抗が増え、非常に大きなハンディとなるので当初 水上機の性能は陸上機に及ばなかった。
これを向上させる目的で、フランスの技術者ジャック・シュナイダーがトロフィーを提供してシュナイダー杯が1913年から始った。
当初は毎年、後に隔年で行われた年次競技会で3回連続して優勝した国がトロフィーの永久保持国となることになっていた。
第二次大戦で英国の空を守った「スピットファイア」はシュナイダー杯レースの競技機を製作してイギリスにシュナイダー杯をもたらしたスーパーマリン社が初めて開発した陸上機であった。
1931年に行われた最終競技で、スーパーマリンS6Bは時速547キロの記録で優勝したが、このときに調整が間に合わなかったイタリアのマッキ・カストルディMC72が1934年に709.209km/時という記録を樹立した。
この記録はレシプロ水上機としては70年経過した現在でも破られていない。

北大西洋横断定期空路を初めて開設したのはパンアメリカン航空で、使用した航空機はボーイングB314飛行艇であった。
初飛行は1939年7月8日で、ニューヨークを起点として、途中バーミューダとリスボンで給油し、サザンプトンまでの飛行であった。
パンナムは第二次大戦開戦後もニューヨークのラガーディア空港とポルトガルのリスボンを結ぶこの路線の運航を続けており、軍人や外交官、民間人などを運んでいる。
1942年にルーズベルト大統領と面談したチャーチル首相もこの飛行艇を利用している。

1930年代から40年代に活躍した飛行艇は陸上機の飛行性能向上、特にSTOL(Short Take Off & Landing:短距離離着陸)・VTOL(Vertical Take Off & Landing:垂直離着陸)を含む離着陸性能と航続距離の向上により往時の勢いはないが、いまなお現役運用されており新機種の開発も進められている。

大型飛行艇を維持・運用しているのはわが国とロシアのみである。

各国海軍も水上機や飛行艇を輸送や哨戒に多用していたが、現在救難や対潜哨戒に運用しているのは海上自衛隊だけである。
(森林火災などには CL415消防飛行艇が陸上機やヘリコプタとともに用いられている)

2004年11月に開催された日本造船学会講演会で、新明和工業から発表された論文によるとその時点における世界の水上機総数は5千機程度であるが、1万機程度存在するという統計もあるとされている。

カットの切手に描かれている飛行艇はシコルスキーS42である。

このページでは、実用化初期からの飛行艇の概史を旅客輸送に重点をおきながら紹介する。

Comment on "(飛行艇の時代:1)飛行艇"

初めまして。KenFolletのNightOverWaterという小説からB314を探していて、ここにたどり着きました。豊富な情報、楽しく、興味深く拝見しております。件の小説は、1939年の大戦直前にサウザンプトンからニューヨークへ飛ぶフライトが舞台となっております。それに依れば、このフライトはバミューダ/リスボン経由ではなく、大圏航路に添って、アイルランドのFoynesとニューファウンドランドのBotwoodを給油地にして、運行していたようです。著者の調査に基づく給油基地の状況など面白いので、ご参照下さい。ストーリーの理解に必要なため、B314の機内レイアウトなども掲載されています。キッチンの前にクルーのコンパートメントがあり、螺旋階段はその前に在るようです。また、船尾にもアッパーデッキに上がる梯子が在ったそうです。
話は変わりますが、修道から広大造船へ進まれたとか、私は阪大48年卒で、操縦性をやっていたので、亡くなられた仲渡先生とはいろいろなところで親しくさせて頂いておりました。また、20年ほど前には2年間サウザンプトンに滞在する機会に恵まれ、再開されたシュナイダーカップなども見てきました。サウザンプトンの対岸にはCarlshotというスポーツセンターが在りましたが、ここには海に面した巨大なスロープがあり、昔の格納庫の建物を利用した設備でした。なつかしいです。
家内の実家は大竹で、女学院卒です。

切田さん
来訪歓迎致します。
丁寧なコメントをありがとうございました。
B314はWW2が始まったために活躍した期間が短かったのですが私の好きな艇の一つです。

こうしてコメントを戴くと詰まらないブログを続けている張り合いになります。

Folletの本、面白そうなのでアマゾンに発注しました。
書評には飛行機あるいは飛行船と書いてあり「飛行艇」は死語になったのかと思いました。

広島西飛行場(以前は国際便も飛んでいました)は便利なところにあり、南は瀬戸内海、西は太田川放水路に面しているので、小笠原や沖縄・先島諸島などへ週に1〜2便でも飛行艇の空路を開設すれば良いと思っています。
新明和が高ければカナディア(ボンバルディア)でも良いと思いますが・・・。