2005年05月09日

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(生い立ちの記:2)台北州淡水街砲台埔38

淡水河口.jpg

台北の郊外、淡水街で生まれた。

住居は街を見下ろす高台にあった。
上に書いた住居表示はすぐ横にスペイン人の建てた砦のあったところからついたものだろうと思っていたら、近くにあった滬尾砲台にちなんだ地名であることが後日判明した。
(そこには私の生まれた公会堂の母屋と洋館の写真がいまも掲示されている)

見出しの写真は当時住んでいた辺りから西の方角、淡水河の河口を望んだものである。

公務員や商家など日本人も多く住んでおり、普通の家庭でメイドさんや下男を雇っていた。

商店街から少し距離があるので人力車に乗ることがあった。

駅から河口の方向に歩いている日本人を見かけると道端にしゃがんで客待ちをしていた車夫が舵棒を押しながら並行して「どこまで帰るのですか?トーシャはどうですか?」と勧誘しながらついて来る。
まだ未就学なので街に出るときは母と一緒のことが多かった。

車夫:「どこまで行くのですか?」
母: 「公会堂まで。」
車夫:「公会堂まで遠いですよ。トーシャに乗りませんか?」
母: 「幾らで行く?」
車夫:「××銭。」
母: 「高いよ。歩くから要らない。」
車夫:「△△銭にするから乗ってくださいよ。」
母: 「高い。要らない。」
車夫:「うーん。しょうがない。○○銭にするよ。」

と、100メートルくらい交渉しながらついてくるのである。

これは母がケチでそうしているのではない。
インドでも、中国でも、全ての商売はお金持ちにはそれ相応の代価を払ってもらうことが常識だから言い値で買い物をする人はいない。
売り手側も客を見て値をつける。そこからネゴシエーションが始るのである。

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日本人にはこのところがよく判らないらしい。
東南アジアで新興のクルーズ会社がある。
日本のクルーズに較べると料金が安いので利用する人も多い。
しかし、ドル建ての料金を知ると、円に換算してみて「そんなに安く乗せているのか。日本人に高く売りつけてけしからん。もう、乗ってやらない。」と憤る人がいる。
日本のクルーズ料金のほうが変則なのである。
季節によらず、寄港地によらず、同じ船ならいつも同じ料金と言うのは市場原理からしておかしいのである。
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脱線した。
話を当時に戻す。

非常に治安がよく、のどかなところであった。

夜も戸締りすることはなかった。
按摩さんが笛を吹きながら通りかかると「按摩さん。お願い。」と声を掛けて揉んでもらうのであるが、いつぞや呼びもしないのに夜中に祖母の枕元に座って「おばあさん。あんま、もみましょうか?」と来たことがあるそうである。
庭に干していて、取り込み忘れたものが無くなることがあったか、なかったか程度であった。

果物も安くて美味かった。
日本では、バナナもパイナップルもパパイヤも熟れた美味しいものを食べられない。
輸出用の果物は、青いうちに収穫して船積みし、下関など陸揚げした港で熟れたような処理をして市場に出しているのである。
以前は乾燥バナナみたいなものしか口にできなかった。

現地で熟れたパイナップルやパパイヤは、味も香りもこちらで食べるのとは較べられない。

市場では、子供向けにサトウキビやリューガンも売っていた。
「リューガン」は「ライチ」とよく似ているが殻の色が黄土色で、大きさもわずかに小さい。
最近では、大津波の来る数ヶ月前、プーケットのホテルで昼食を摂った時、デザートに出ていた。
「あ、久しぶりのリューガン」と、その味を思い出した。

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