2005年06月03日

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(生い立ちの記:7) 基隆

Keelung1.jpg

台北駅から貨物列車で基隆へ向かった。

基隆に集結したのは1946(昭和21)年の3月19日頃であった。

基隆の港は海から細く入り込んでいる。

駅は港の一番奥の西側に隣接していた。
すぐ前には税関など港湾関係庁舎があり、臨海線は岸壁沿いに延びていた。

写真は、ちょうど50年目の1995年3月に、横浜から大阪・屋久島・沖縄に寄港しながら「飛鳥」で基隆に行ったときに撮ったものである。

駅前広場の蒋介石の銅像は、彼が好んで身につけていたケープを着用していた。
戦後、国民党政権のころ建てられたものであろう。いまもあるのだろうか?
ここは屋久島と同様、1年に366日雨が降るといわれるほど雨の多いところなのである。

蒋介石の背景に乗って行った「飛鳥」が見える。
「飛鳥」は入船で左舷付けに客船ターミナルに接岸している。
船首の2〜300m先は行き止まりである。
湾奥の手前には水上警察やコーストガードのカッターなどが居た。

客船埠頭の対岸、手前側(画面の左外)が貨物船埠頭である。

引揚者たちは、なりも振りも構っては居れず、線路を枕に貨車の日陰で横になっていた。
3月21日、旧海軍の海防艦34号に乗船した。
その間、どこで過ごしていたのか全く記憶がない。

海防艦は小さな船だった。
当然火器は撤去されていた。

舷門を上り、狭い通路を潜り抜けて艦内に入った。
狭い区画に引揚者を収容するために木材でデッキ(棚?)が仮設してあった。

デッキ高さがあまりにも低いので、胡坐をかくことも出来ず、そこに収容された者は寝たきりで居るしか出来なかった。

細長い基隆港を出るとき、父が、揺れて打込波で洗われる暴露甲板の見えるハッチに連れて上がってれた。
私の名を呼んで、「あれが台湾だ。よく見ておきなさい。」と言ったのを憶えている。

Comment on "(生い立ちの記:7) 基隆"

突然書き込みさせて頂きます。
私、昭和15年11月生まれですから古渡弁倶郎様と
は近い年齢だと思います。台北から北投へ疎開し基隆港から引揚げてきました。当時の断片的な記憶はありますが、自分の記憶なのか後日人から聞いたものが記憶になったのか判然としませんが、はっきりと思い出す事柄も数多くあります。このブログ見させていただきまして、もう一度台湾へ行ってみようかと思っています。


iwasa様、拙いブログにようこそ
コメントをありがとうございます。
是非台湾にお出掛けになることをお薦めします。
台湾の人は日本人を懐かしみ親切にしてくれます。
儒教の国で、公共交通機関でも若者がごく自然に席を譲ってくれたりします。
私も、当時のことは実際に体験したことなのか親から繰り返し聞くうちに思いこんでしまったことか判然としないことがありますが、現地に行くと「此処だった」とか「この木。この路地に見覚えがある」とか言うことがありました。
木で熟した現地の果物を食べるだけでも幸せです。
終戦直後も台湾の人達には良くして貰いました。
拙いブログですが、また何か書き込みをお願いしたいと思います。
取り急ぎ、お礼のご挨拶まで

古渡弁倶郎様
iwasaです。
今日は五月晴れ、すばらしい天気です。
台湾ですが、私、何度か行っています。70〜80年代、仕事の関係で出張していました。当時は自分の育ったところを尋ねてみようとは思いませんでした。忙しかったこともありますが、何故かそういう気にはなれませんでした。
5、6年前退職。思い立って台北へ旅行しました。旅行に先立って父親が勤めていた会社へ電話し、終戦前の台北支店の社宅(母、妹、私が住んでいた)の住所を調べていただくようお願いしました。会社でいろいろ調べていただきましたが、戦前の古い資料がなく、結局社宅も疎開先の北投にあった寮の住所も判りませんでした。
社宅は、住所がわかっても今の様変わりした台北では捜しようがないと思っていました。ただ北投の寮は自分の記憶の中にかなりはっきりしたものがありました。前の坂道は少し下っていくと左にカーブしていてその先に木の橋があり店屋が何軒かある。そのような記憶を頼りにMRT北投駅からゆっくりと歩いていきました。地獄谷を過ぎしばらく行くと、まさしくそれらしい雰囲気の場所に出ました。しかしそこは台北のガイドブックにも載っている有名なホテルです。古くからの和風の、ホテルと言うより旅館です。思い切って中に入り事情を説明すると、ここの女将(私と同年代か、日本語はかなり通じる)が出てきて話を聞いてくれました。しかし彼女も当時は幼女、彼女の父上がこの旅館をやっていたとの事で、ここが終戦時どのようになっていたかの記憶はまったくない由。仕方のないことです。館内を案内していただき、お茶をよばれ、話を聞いてもらっているうちに、私はここが間違いなく疎開していた場所である、あの8月15日母達がラジオを聞きながら泣いていた縁側はこのあったりに在ったはず、入り口の横のスペースには防空壕がったはず、等等、勝手に決め込んでしまいました。
 すみません。書いているうちに興奮して気が付けば長々と勝手なことを書き込みまして。

iwasaです。
失礼しました。中途半端ですみません。途中で投稿キーを押してしまって。もう少し書き込ませてください。
今度は基隆へと思っています。引き揚げ船に乗るまで基隆港の中の建物の通路で何日か過ごしたようです。私には、その時、ゆで卵ばかり食べていて、その臭いがなかなか取れなかった記憶しかありません。
旅行に行けたらまた報告します。 クダクダ書かせてもらってありがとうございます。

iwasa様
私も北投に疎開しましたが、地熱谷から山道を登った善光寺でした。

ブログにも書きましたがそこでアメリカの艦載機の銃撃を受けました。

先年北投に行ったときにそこまで登りましたが慰霊碑のようなものが建っていました。

何時かお話が伺えればと思っています。