2005年06月13日

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(生い立ちの記:9) 中学・高校時代

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広島市立幟町小学校に入った頃ようやく生活も落ち着き、学友も出来るようになった。

中学校は、広島大学付属と私立のS中を受け両方とも一次はパスしたが付属は定員の倍程度の中から抽選で合格者を決める方式を採っており、これに外れてS中に入学した。

いわゆる中高一貫の学校で、県内から汽車通している者や、隣県から下宿している者もいてバラエティがあった。

ここでAと言う同級生と会った。

Aは大竹から汽車通しており、大竹の隣の岩国に飛行場があったので彼は一方ならず飛行機に興味を持っていた。
結局彼は日航に入社した。

彼は船も好きで、写真屋さんで複写してもらった船の写真をくれたこともあった。

S中学はデルタの埋立地の地先にあり、屋上に上がれば宇品の島も厳島も似島も、天気の良い日は四国も見えた。
川向こうは三菱造船の広島造船所の艤装岸壁であり、艤装中の新造船やフローティングクレーンなどが見えていた。

呉線で坂から通ってくるYは、いつも近くで見ているからか、肥後の守で船を削り出すのが抜群に上手かった。
彼は電気系に進学して、市内の放送会社に入社した。

中学一年のとき、フェリーに乗って四国の松山に日帰りしたことがある。

そのとき、初めてフリゲート艦を見た。
おそらく、呉の港もそのとき初めて見たのであろう。

高校に上がるときに、ひとクラス分だけ編入生を募集していた。
このときに出来た親友もいる。

スポーツでは、中学も高校も野球部はさっぱりだった。

体育の時間に雨が降れば柔道、降っていなければサッカーをやっていたような気がする。

インターハイでは、柔道と蹴球、それに水泳とバスケットなどはそこそこ頑張っていた。

特にサッカーと水球は連続全国制覇したこともある。

修学旅行は中学のときに行って、高校ではその代わりでもないが運動会が盛り上がっていた。

例年、3年生の仮装行列がハイライトであったが、我々の組はバラバラで、新撰組も丹下左膳も乞食もいた。
旧陸海軍の将校も陸上自衛隊の制服もいた。

父が知人から海軍士官の制服を借りてくれ、某所の守衛の帽子を借りて「若き日の山本五十六」になった。

隣のM扮する陸軍将校が海軍の短剣を吊っているのがおかしい。
Mはケミカル(コミカルではない)の分野に進んで、関西方面に行っていたが今は広島に戻ってきている。

この扮装で、家族の観覧席に弁当を取りに行ったら「兵学校の生徒が来ている。」と言う声が聞こえた。

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