2005年06月16日

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(生い立ちの記:10) 造船技師を目指して

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中学も高校も楽しかった。
羽目をはずして叱られたこともあったが、破廉恥なまねはしなかった。

高校の2年生まで視力検査表の一番下まで見えていたが、坂井三郎氏のように昼間の星までは見えなかった。

それが、それほど勉強したわけでもないのに、高校3年になって急に落ちて視力が 0.5〜0.6になった。

今はどうか知らないが、航海士や操縦士になるには当時は裸眼で 1.0程度必要であったと思う。

それで、船舶工学一本に決めた。

当時、T大学、Y大学、O大学、F大学、H大学、K大学と私学の長崎造船短大(3年制)に船舶工学科あるいは造船学科があった(造船短大は後年、長崎総合科学大学になった)。

定員は何れも30名程度であった。

当時は、造船業そのものが好不況が激しく変動し、10年の不況の欠損をブームの1〜2年で取り戻すのではないかと言われていた。

競争率の高いときに入学した学生が希望する企業に入社できるかどうか判らなかった。
従って、機械工学科や電気工学科のように入試倍率は安定していなかった。

受験生は前年度の入試実績を見て願書を提出する。
そのため、船舶/造船の応募者数は多かった年の翌年は低く、少なかった年の翌年は倍率が上がっていた。

結局、入りやすいところへ願書を出すのである。

家から通えるH大に入学したが、入学生の出身地は、北は福島県から南は鹿児島まで広く分布していた。

船が好きで/船が勉強したくて来たものは30人のなかに2人しかいなかった。
自分のほかは一人だけと言うことである。

船に乗ったことも、海を見たこともないものもいた。

とにもかくにも、造船技師を目指して大学生活が始った。

4年生の冬、夜行列車でスキーに行った。
その年、記録的な豪雪で帰りの列車が走らなかった。

あくる日帰る列車に一人無理やり乗り込んだ。
その翌日は、非常勤講師が遠路、講義に来る日であった。
なんとか登校し、石炭ストーブをはさんで、一対一の授業が受けられた。


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