2006年07月04日

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(飛行船:62) 『飛行船の黄金時代』 第1章:私の飛行船事始め(2)

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(前回からの続き)

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1928年にグッドイヤー・ツェッペリンはアメリカ海軍から重要な2隻の6500000フィート(訳者註:立法フィートの誤りと思われる)の大型硬式飛行船の契約を結ぶことが出来た。
のちに「アクロン」「メーコン」と命名される2隻である。
1930年末、大型船の設計・建造が進行中であったが建造中の「アクロン」とそれを格納するエアドックは工事中であった。
その当時グッドイヤー・ツェッペリンの設計部門はドイツ人に限られていたので、リッチフィールド氏は誰か有能な若いアメリカ人をスタッフに加える時期だと考えた。

こうして1930年末のある日、我々3人がリッチフィールド氏の事務所に呼び出され、そこで社長から硬式飛行船の建造に誰かアメリカ人を従事させることを望んでいると告げられた。
人間味豊で説得力のある人物ポール・リッチフィールド氏は硬式飛行船の開発には大きな未来があり、その技術をグッドイヤー・ツェッペリンに移転することは重要であると述べた。
ジョージ・ルイスと私に「神託」が下った。
我々は直ちにグッドイヤー・ツェッペリンのスタッフに参加した。

それから4年間、プロジェクト部門で仕事をした。
そこは計画中の飛行船の内部配置、重量、性能計算など全てについて責任を持つ部署であった。
さらに面白いことに、私は約10名のグッドイヤー・ツェッペリンの若いエンジニアのグループに選抜された。
ここでは硬式飛行船の設計と建造に関連して、将来責任ある立場になる可能性に備えて広範囲な経験と実習をさせてくれた。
指導は理論面ばかりでなく実際の応用面にまで及んだ。
所詮、巨大な「グラーフ・ツェッペリン」にしてもただ動力付きの気球であり、我々は自由気球の飛翔から実際の航空力学を学び、次いで小型のグッドイヤー軟式飛行船で操船の訓練を行った。
このことが、巨大な硬式飛行船を扱う上の問題にアイデアをもたらしてくれた。
私は国際航空連盟(FAI)の1933年10月27日付けの球形気球操縦免許証1074号と、1934年5月25日付け可導気球(訳者註:軟式飛行船)操縦免許証249号を持っている。
その2つの免許証には、歴史に残る1903年12月17日キティーホークで最初の操縦可能な動力付き飛行を行った航空界の長老で当時デイトンに住んでいたオービル・ライトのサインがあることが私の誇りである。

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上の写真は国際航空連盟(FAI)の球形気球(自由気球)の、下は可導気球(軟式飛行船)の免許証である。
軟式飛行船の飛行の多くはグッドイヤーの「ディフェンダー」が用いられた。
自由気球は8万立法フィートの石炭ガス(殆ど水素)で充填されていた。
両方の免許証にオービル・ライトの署名がある(同書、P22)。

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