2006年07月05日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「紺碧の海」はこちらです ***

(飛行船:63) 『飛行船の黄金時代』 第1章:私の飛行船事始め(3)

LZ129uc1.jpg

(前回からの続き)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

その間に私の知らない会社の最上層では、グッドイヤー・ツェッペリンと親会社ツェッペリン飛行船製造会社の間で、思ったほどうまく行っていないことに関して対策が検討されていた。

会長のエッケナー博士はリッチフィールド社長やアメリカの飛行船関係者達と常に親しくしていたが、ツェッペリン社の一般の従業員はツェッペリンの「取引上の秘密」を共有すべきだと嫉妬と不満を抱えていた。
なかでもエッケナー博士の理想の大洋横断飛行船で7062000立法フィートの、後に「ヒンデンブルク」と命名されるLZ129は建造準備段階であったが、グッドイヤー・ツェッペリンは勿論この船の全ての情報を欲しがっていた。
1928年建造の年代物の「グラーフ・ツェッペリン」より格段に洗練された印象であった。

エッケナー博士の返答は、グッドイヤー・ツェッペリンからフリードリッヒスハーフェンに軟式飛行船のパイロットを派遣し「グラーフ・ツェッペリン」の南米への旅客輸送飛行に乗り組ませようというものであった。
私はこの話を1934年に我々の何人かがリッチフィールド氏とグッドイヤー副社長の一人ジョー・メイル氏と会うまで何も知らなかった。
ジョー・メイル氏はエッケナー博士と、我々の軟式飛行船パイロットを「グラーフ・ツェッペリン」に乗せるために派遣することを理解していた。
その場の話のなかで私は「なぜ、飛翔について何か知っている技術者を派遣して調べさせようとしないのですか?」と質問した。

リッチフィールド氏はすぐ話題を変えた。
しかし翌日、大混乱が起きたことを後日知った。
グッドイヤー・ツェッペリンの主任設計者アルンシュタイン博士は直ちに同意してLZ129の建造に従事している熟練技術者の報告は軟式飛行船のパイロットの観察より有益であることに同意を示した。
リッチフィールド氏はまた、信頼できる資格のあるグッドイヤー・ツェッペリンの代表者がフリードリッヒスハーフェンから報告する必要も感じていた。
私の思い付き発言のちょうど一週間後、ジョージ・ルイスと私は「グラーフ・ツェッペリン」にドイツ人達と乗船し、またLZ129の建造状況を調べるためにフリードリッヒスハーフェンに行く荷造りについて相談していた。
我々はアルンシュタイン博士に新船の建造状況について頻繁に技術レポートを送るように指示され、リッチフィールド氏からは全般的な状況についての情報を送り続けるよう求められた。
こうして1934年5月、ジョージと2人でヨーロッパに行く汽船「プレジデント・ハーディング」に乗船した。
私が再び合衆国に帰ったのは14ヶ月後のことであった。
私はリッチフィールド社長に直接かかわり、支援出来たことを喜んでいる。
その例に、次の手書きの手紙を宝物にしている。

----------------------------------------------------------------
1934年9月16日
親愛なるハロルドへ

君の34年9月4日の手紙を拝見した。
パイロットである技術者ディックと技術者の鬼神ルイスは、寒いドイツの冬に赤いフランネルで懸命に頑張っていることと思う。
4月頃、君たちは合衆国オハイオ州アクロンで、熟練した硬式飛行船の操船と同様、設計と建造を担当することになろう。
この資格を取得したら、ワシントンの官僚達に飛行船は無用の長物ではないと確信させることが出来る。
この寒い9月の朝、グッドイヤー・ツェッペリン社にて

グッドイヤー・ツェッペリン社
                      社長 P.W.リッチフィールド


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(第1章 終わり)

写真は建造中のLZ129「ヒンデンブルク」号。1935年にドイツのツェッペリン飛行船の大工場の中で撮影されたもの。フレーム構造の空間の中で、これもフレーム構造の巨大飛行船が組み立てられている。横には4本ずつの支柱が出て船体を固定しているのが見える(ミリタリーエアクラフト1999年9月号別冊から、写真・キャプション共)。


Comment on "(飛行船:63) 『飛行船の黄金時代』 第1章:私の飛行船事始め(3)"

"(飛行船:63) 『飛行船の黄金時代』 第1章:私の飛行船事始め(3)"へのコメントはまだありません。